2025年12月6日(土)

終わらなかった戦争・後編サハリン

2025年8月13日

鉄道に波がかかるのを防ぐことを目的に建設された稚内港北防波堤ドーム。当時、樺太に出かける人々でにぎわったという(WEDGE以下同)

 しかし、1945年8月9日以降、樺太は突如として戦場となった。 ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄し、侵攻を開始したのである。 沖縄戦にも似た惨劇が繰り広げられ、艦砲射撃や機銃掃射が容赦なく市街を襲った。死の逃避行を余儀なくされ、集団自決も相次ぎ、まさに〝地獄絵図〟であった。豊原市出身で北海タイムス社会部長、編集委員などを務めた金子俊男著『樺太一九四五年夏』(ちくま学芸文庫)には、当時の生々しい様子が描かれている。例えば8月22日、豊原駅には避難民など多くの人がごった返す中、ソ連機は爆撃し、機銃掃射を浴びせた。

 「爆風や破片、銃弾でやられ、肉片が飛散し、血まみれで苦しみ、もがく声。(中略)さっきまで、親たちの苦悩も知らずはしゃいでいた子供が、爆風で腹部を引きさかれ、半袖シャツをまっかにして防空壕の口に死んでいた」──。

 「樺太記念館には年間で約1万6000人の方が来場されますが、かつて樺太に日本人がいたこと、地上戦があったこと、その後も残留を余儀なくされた人や引き揚げ者が多くいたことなど、樺太の歴史を知らない方の方が圧倒的に多いですね」

稚内市教育委員会学芸員の斉藤譲一さんと日露国境標石(天第4号)のレプリカ。4つの国境標石のうち、間宮海峡側に置かれた

 稚内市教育委員会の学芸員である斉藤譲一さんはこう語る。斉藤さんはもともと考古学が専攻で、別の場所で学芸員を務めていたが、縁あって現職に就いた。そんな斉藤さんも、それまで樺太に関する歴史についてはほとんど知らなかったという。

 「樺太に住んでいた方や親族の方の話を聞き、調査していくと点と点が線でつながることがあります。日常の何気ないことでも発見がある。今では、何らかの形で『当時のことを残したい』という人が増えています」

 こう言って、斉藤さんは、あるものを渡してくれた。39年、大泊(現・コルサコフ)で生まれ、生後3カ月で豊原に移り住み、戦時下を経験。長く父親と離れ離れだった濱谷悦子さんの『五歳の記憶~戦後八十年を迎えて~』という手記である。その中には、濱谷さんが引き揚げ船に乗った時の様子が記されている。当時、船の底には定員の5倍近くの人が乗っており、濱谷さんはトイレにも行けず、通路は排泄物がいっぱいで、ひどい悪臭がしたという。

 あれからもう、80年。

 樺太での暮らしと戦争の記憶を語り継いできた方々も、いまや少しずつ鬼籍に入り、その証言は貴重なものになっている。冒頭紹介した「私たちは、【カラフト】を知らない。」では、樺太のことを知らなかった3人の女子学生が実際にサハリンを訪れ、再び稚内に向けてフェリーが出航するシーンで終わる。その最後のナレーションでこう問いかける。

 「たとえ、街が変わっても、そこに残る記憶は変わらない。ここは日本、樺太だった。私たちが忘れなければ、そのことは変わりません」

ロシアとの交流が
途絶えた「国境の街」

宗谷岬公園の看板には「サハリン(旧樺太)」の文字が書かれている

「国境の街」稚内には、樺太とロシアに関係する石碑や記念碑が点在している。

樺太で亡くなった人たちの慰霊のために建てられた「氷雪の門」。天気が良い日には像の背後にサハリンが見える

 樺太で亡くなった人々の霊を鎮めるため、稚内公園の小高い丘に静かに佇む「氷雪の門」、真岡(現・ホルムスク)にあった真岡郵便局で最後まで通信業務を死守し、最期は青酸カリで自決した9人の女性電話交換手の慰霊のために建てられた「九人の乙女の碑」、稚内市樺太記念館にある国境標石(レプリカ)などだ。宗谷岬公園には、江戸時代に樺太(サハリン)が島であることを確認した間宮林蔵の立像があり、今もサハリンの方角をじっと見つめている。

間宮海峡を発見し、樺太(現・サハリン)が島であることを確認した間宮林蔵。その視線の先にあるのがサハリンだ
九人の乙女の碑。「皆さん これが最後です さようなら さようなら」という最後の交信が痛ましい

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