稚内はそれだけロシアとのつながりが深い街であり、そのDNAは今を生きる人々にも受け継がれている。会員誌『月刊サハリン情報』の発行やロシアとの交流会企画・運営などに携わる稚内日ロ経済交流協会事務局長の伊藤裕さんはこう話す。
「かつて、街にはロシア人がたくさん歩いていました。ドラッグストアや市内にあるショッピングセンターで買い物をしている人をよく見かけました。日本の衣料品や電化製品もとても人気があり、たくさん購入しているロシア人の姿を見ましたね」
稚内市サハリン事務所長で稚内出身の佐々木陽平さんも、幼い頃からロシア人の姿を身近に見て育った。
「私が中学・高校生だった1990年頃から2000年代にかけて多くのロシア人が街におり、ホームセンターや100円ショップにもいましたね。チェーン店の居酒屋で、大ジョッキのビールをおいしそうに飲んでいたのを今でも覚えています」
当時の面影を伝えるものもある。 市役所近くの稚内中央商店街では、多くの店がシャッターを下ろしていたものの、ロシア語で書かれたひさしや看板が目を引いた。 街のあちこちにある道路標識にもロシア語表記が見られ、かつて多くのロシア人観光客や買い物客が訪れていたであろうことが分かる。
前出の伊藤さんは「ピークの97年には、稚内港に来るロシアの船が4300隻近くにも上りました。ただ、その年を境に、徐々に減っていきました。稚内市の人口減少も関係していると思いますが、それによって、閉めざるを得なくなったお店もあるのではないでしょうか」
利尻島・礼文島へのフェリーを運航している「ハートランドフェリー」は、1999年から2015年度までサハリンへの定期航路を運航しており、稚内とコルサコフ間を約5時間30分で結んだ。最盛期の06年には日本人とロシア人などをあわせて約6000人が乗船し、多くの人々が往来した。
「ハートランドフェリー」の運航終了後、16年からは「サハリン海洋汽船」が定期航路を運航していたが、18年を最後に運航終了し、連絡船はなくなった。
かつては新千歳・成田空港─ユジノサハリンスクの航空便も運航されており、新千歳からはわずか約1時間25分でサハリンに行くことができた。だが、その後のコロナ禍で移動は困難となり、追い打ちをかけるように、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、サハリンへの直行便も途絶えてしまった。昨年12月にサハリンを訪問した伊藤さんは「北京経由でウラジオストクまで飛び、ユジノサハリンスクに向かうルートになり、丸2日です。時間もお金も余計にかかるようになってしまいました」と嘆いた。
関係改善なるか?
継続したい土台作り
近くて遠い島になったサハリン。前出の佐々木さんは言う。
「日本とサハリンの〝結節点〟であった稚内が、今や〝終点〟になっています。サハリンとつながれば、その先にある大陸にもつながり、人、モノ、お金の流れも活発になる。私たちにとって、夢を語れるのがサハリンであり、稚内の将来を考えれば、サハリンとの交流、つながりはなくしたくないですね」
かつてのような関係に戻ることを希望するのは樺太からの帰国者やその家族・親族も同じだ。中国や樺太からの帰国者の生活支援や日本語学習支援などを行う、北海道中国帰国者支援・交流センター相談員の篠原恵理子さんは、帰国者から「どうしてこんなことになっているんだろう」という声を聞くことがあるという。帰国者も高齢化が進み、介護なども必要になっている。サハリンに住む家族・親戚などが以前のように自由に往来できず、墓参りもできないなど、支障をきたしている面もある。
北海道庁国際課の担当者は「
ウクライナ侵攻以降、ロシアと主要7カ国(G7)や欧州連合(EU)各国との関係は極度に悪化した。だが、ロシア情勢に詳しいある関係者はこう話す。
「ウクライナ侵攻後、ロシアへの制裁は今までにないレベルで行ってきましたが、このままずっと続けることが日本の国益にかなうことになるのか、冷静に考えることも必要です。もちろん、ロシアの暴挙は許されず、G7各国やEUとの協調も必要ですが、各国とも守るべき国益は守っており、日本としても譲れない一線は粘り強く主張していくべきです」
現時点では、ロシアとの関係が好転する糸口は見えていない。だが、民間同士の草の根交流は続けていくべきであり、両国民の間で、過度な「反日」「反ロシア」感情が染みつくことは避けるべきだろう。予断を許さぬ状況が続く中でも、関係改善に向けた土台作りは両国間で行っていくべきだ。平和への希望はどんな時でも決して手放すべきではない。

