サハリンに出会ったからこそ、それまでとは違う世界が見えてきた。私にとって、サハリンは様々なことを教えてくれる〝教科書〟みたいな存在です。
日本サハリン協会ではこれまで、旧ソ連地域に住む残留日本人の一時帰国や永住帰国の支援を主な事業として行ってきました。私はサハリンに出会った者の責務として、この活動に携わっています。
1945年当時、樺太には40万人近くが住んでいたとされています。自然豊かな土地での平穏な暮らしから一転、残留せざるを得ない運命になるとは、想像もできなかったことでしょう。
ソ連軍の侵攻直後に行われた緊急疎開では避難できた人はごくわずかにすぎませんでした。大半の日本人はソ連軍占領後の46年、56年の2度にわたる引き揚げ事業により帰国しました。しかし、様々な事情から帰国の機会を逃し、残されたままとなった多くの日本人がいたのです。
88年、ソ連のペレストロイカ政策によって実現したピースボートのクルーズで私は初めてサハリンを訪れました。「社会主義の国とはどんな国なのか、自分の目で見てみたい」という気持ちもあり、参加しました。
サハリンでは当時まだ、現地の日本人が日本からの訪問者に接触することは当局から禁じられていました。ところが、一人の残留日本人男性に「日本人に会いたくないか?」と話しかけられたのです。
この時の日本人女性たちとの出会いが、その後、私の人生に大きくかかわることになりました。私はそれまで、サハリン残留朝鮮人の帰還事業については知っていましたが、まさか日本人が残留しているとは思ってもいませんでした。
