現在も残留日本人の一時帰国事業を行っていますが、高齢化など、様々な要因から、支援枠数が埋まらないことも多くなっています。さらに、戦後80年を経て、日本語を話せる方はほとんどいなくなり、通訳が必要になりました。中国からの帰国者と違って漢字も読めません。また、日本で帰国者を受け入れる親族もいなくなっているため、滞在の全てを協会が支援する必要があるなど、新たな課題が出てきています。
サハリンから見る
終わらない戦争
ペレストロイカ以降、徐々に観光目的でもサハリンに行くことができるようになり、2010年代後半、日本とサハリンの間には活発な交流がありました。直行便ならサハリン─札幌は1時間半。気軽に往復できるようになって「これから」という時にコロナ禍になり、続けてロシアのウクライナ侵攻がありました。ロシアからの直行便がなくなり、高齢者には第3国経由での長時間の移動は困難です。かつて「鉄のカーテン」に阻まれたときと同じような移動制限が起きていて、まるで冷戦時代に戻ってしまったかのようです。
時間が経てば経つほど、以前のような関係性には戻れなくなってしまう。このままでは、サハリンのことを知る機会さえなくなってしまうのではないかと危惧しています。
残留の当事者が少なくなる中、永住帰国者の話を語り継ぐ「語り部」の育成と派遣事業を行っている中国帰国者支援・交流センターなど、サハリンのことを知ってもらうための様々な取り組みも行われています。私たちも帰国者との交流会を開くなど、サハリンとのつながりが途絶えないよう尽力しています。
私は、樺太・サハリンを「南樺太」であった40年間だけを見るのではなく、もっと長い歴史で捉えるべきだと考えています。サハリンという地には多様な民族が住み、多様な文化が生まれ育まれた。歴史も複雑に絡み合っています。また、かつて樺太・サハリンで起こった出来事は、現在の世界でも起きています。国と国の戦争により、家族が分断され、多くの人々が犠牲になる──。我々が樺太・サハリンの歴史から得られる視点、学びはたくさんあるのです。
世界では今もなお、自分の国に帰れない人がたくさんいます。「日本」という国があり、いつでも帰ることができる現代の日本人には、なかなか理解しにくいことかもしれませんが、わずか80年前の日本人も、同じような経験をしていたのです。一人でも多くの方に樺太・サハリンの歴史を知ってほしい─。私は今、心からそう願っています。(談)
