サハリンに残された日本人女性の多くは自分が日本人であることを隠して過ごしていました。しかし、私たちのような日本人がサハリンに来るようになったことで、自分たちも「いつか日本に帰ることができるかもしれない」と考え、サハリン在住の「日本人リスト」を作って待っていたのです。
訪問先の日本人女性の家で私は大きなショックを受けました。人形などを飾るサイドボードに、日本人が捨てていった菓子袋やたばこの箱が大事そうに並べられていたのです。ロシア語ばかりになったサハリンで、「日本語が書いてある」だけで嬉しくて、懐かしくて、飾って眺めているというのです。今でもその光景を忘れることはできません。
協会設立で進む
国の帰国支援
戦争中、日本人の男性は戦争に駆り出され、残された女性たちは生きるために朝鮮から来た男性と結婚して自分の家族を養いました。ところが終戦後、朝鮮人は引き揚げの対象にならず、既に朝鮮人と結婚していた女性たちは、子どもを置いて日本に帰ることはできず、残らざるを得なかったという話を聞き、胸が締め付けられる思いがしました。
元FM東京アナウンサー。退職後もフリーランスとして報道関係を中心に活動。2012年に同会会長就任。日本大学文理学部では非常勤講師として民俗学・民俗文化論を教える。
私がサハリンを訪れた88年、日本サハリン協会の前身「日本サハリン同胞交流協会」を設立した樺太出身者たちもサハリンで残留日本人に出会い、動き出していたのです。小川岟一会長を中心に90年に初の集団一時帰国を実現し、私もサハリンで出会った女性に再会することができました。この活動により、「サハリンに日本人はいない」としていた国も帰国事業を本格化させ、複雑な帰国手続きを簡略化するなど帰国支援は着実に進んでいきました。
サハリンに残された日本人には、家族を養う立場となった長女が多かった。長女である私は、もしその頃にサハリンに生まれていたら、あの女性たちと同じような人生を送ったのではないか。その思いは今でも消えることがなく、私がこの活動を自分にとって〝必然〟と感じる最も大きな理由になっています。
協会がこれまでにかかわってきた一時帰国者数はのべ3734人、永住帰国者数は138世帯で、310人に上ります。支援開始当初は一度に200人もの帰国者を迎えたこともありました。当時は、私がサハリンで出会った女性たちのように、ほとんどが日本時代の樺太に生まれ育ち、日本語を話していました。
