生成AIが読書感想文を数十秒で書けるようになった2026年、子どもの学びの風景は大きく変わりつつある。大学院生の論文を読んでいても、文章が整っていることと、「その人にしか書けない言葉」が書かれていることは、もはや別の能力になったと感じる。
ビジネススクールで、多様な経歴を持つ学生が卒論やプロジェクト研究に取り組む姿を見ていると、最後にものを言うのは、経験に裏打ちされた言葉の力であることを痛感する。AIが生成する文章がどれほど巧みになっても、人が現場で悩み、考え、歴史や理論と照らし合わせてきた「経験」そのものまで代替できるわけではない。
では、子どもたちの学びはどうだろう。
従来の「読書感想文」という宿題は、小学生の学びを促す機能を急速に失いつつある。課題図書が名著であればあるほど、ネット上には原著についての解説や評論、膨大な感想があふれている。本人が一行も読まなくても、AIに頼めば「立派な小学6年生風」にも、「もう少し幼い小学4年生風」にも感想文を調整できてしまう。
読書感想文を親が手伝った経験がある家庭は少なくない。一方で、AIを使うことには抵抗を感じる親も多いという。しかし考えてみれば、親に手伝ってもらうことと、AIに手伝ってもらうことの境界は、これからますます曖昧になる。
だったらむしろ宿題の方を変えてみてはどうだろう。「この夏、自分が一番はまったもの」を自由帳に書く。
アニメでもゲームでも、空の雲でも鉄道でもいい。絵でも地図でもキャッチコピーでもいい。むしろ親から見れば「そんなものを調べて何になるのか」と思うものほど面白い。例えば、この夏、私は四半世紀以上前に見たSFアニメを久しぶりに見直して驚いた。
「レア・ガルフォース」という作品である。
そこには核戦争で荒廃した地球、人類が作り出しながら人類の敵となったAIロボット、火星へ逃れた人々と地球に残された人々の対立などが描かれている。荒唐無稽なSFとして楽しんでいた世界が、2026年に見直すと、核抑止、AI兵器、格差、資源をめぐる争いといった今日の問題と奇妙なほど重なって見える。
そういえば学生時代には、MAD(Mutual Assured Destruction=相互確証破壊)という核抑止の考え方を学んだ。お互いが相手を完全に破壊できるだけの核兵器を持つことによって、かえって核攻撃を思いとどまらせるという、文字通り「MAD(狂気)」とも読める論理である。
さらに記憶をたどれば、別のアニメでは、巨大台風によって海上航路が狭められ、資源をめぐる争いが激しくなり、民間の輸送船に武装した護衛が必要になる未来が描かれていた。
昔なら「面白い」で終わっていた。ところが今なら、そこから核抑止、AI、気候変動、海上輸送、国際政治へと、いくらでも線を伸ばしていける。好きなものを入口にすると、学びは勝手に脱線する。
私は、この「脱線」が案外大事なのではないかと思う。作文なら、最初に決めたテーマから外れないように書きなさい、と言われるかもしれない。論文ならなおさらである。
しかし自由帳には、そんな決まりはない。飛行機を描いていたはずなのに空港を調べ始め、空港から街の地図を描き、なぜここに工場があるのか気になり、いつの間にか自分の住んでいる街の歴史を調べている。それで構わない。
AIは、こうした脱線の相棒としてむしろ積極的に使えばよい。
「このアニメの設定は科学的にあり得るのか」
「この飛行機はなぜ飛ぶのか」
「昔ここに工場があったのはなぜなのか」
分からなければAIに聞けばいい。そこからまた次の疑問が生まれるかもしれない。ただし、最後に白紙ノートに残してほしいのはAIとの検索結果ではない。
「私はなぜこれが面白いと思ったのか」
「何に驚いたのか」
「次に何を知りたくなったのか」
という本人のオリジナルな思いである。それらしい文章をAIに作らせることはできる。しかし、「なぜ面白いと思ったのか」という経験そのものまでAIに代わってもらうことはできない。
