一昨年102歳で逝った画家の野見山暁治はエッセイの名手でもあった。
めぐりあった同時代の画家らを描いた『四百字のデッサン』や、留学先のパリで病死した若い妻への挽歌『パリ・キュウリイ病院』などは、人間へ向けた画家のまなざしを柔らかで行き届いた文章にした名作として、いまも読み継がれている。
九州筑豊の炭鉱町で育った自身の生いたち。画家を志して東京美術学校(東京芸大)に学び、繰り上げ卒業で召集を受けて兵卒として満州へ動員されながら、肋膜炎で内地送還となった戦時下の苦い日々。戦後、フランス政府私費留学生としてパリに暮らし、めぐりあった日仏の友人たちとの交流の回想も陰影に富んでいる。
帰国したのち母校の東京芸大教授に招かれたが、生来のボヘミアン的な体質が大学の水と合わず、のちに教壇を退いた。大学で岡田三郎助や藤島武二といった巨匠たちから受けた指導への違和感が、その後の画家の20世紀の〈絵画〉へ向けるまなざしと、自らの造形に大きな転換をもたらしたと見える。
画家を志しながら、野見山は基礎的な訓練の石膏デッサンが好きではなかった。
美術学校の教室にはデッサンの教材であるギリシャ・ローマ時代の英雄や美神たちの石膏の胸像が並んでいる。
〈石膏像の原型は実のところ、わたしが永らく滞在したヨーロッパの名だたる彫刻だったのだ。それまでは迂闊にも、画室を飾るエキゾチックな置物ぐらいにしか思っていなかった。‥‥いったいどう見れば良いのか。先駆者たちは、西洋人の目を持つことに懸命になっていたようだ〉
立体の掴み方、材質の性格と技法を飲み込むことに日本の画家たちがやっきになったのは当然であったに違いない。その「西洋人の目」を競う教育への疑問が、フランス留学と帰国後の野見山のなかに降り積もっていったのだろう。
もとよりこの画家が初期から滞欧時代にかけて描いた作品は、異郷の炭鉱の風景を描いた『ベルギーのボタ山』(1957年)であれ、女性の肖像画の『アニタ』(1955年)であれ、西欧写実絵画の基本をふまえた具象画に重厚なデフォルメをくわえたフォーヴィズム風の作品であり、安井賞を受賞した『岩上の人』(1959年)はその頂点をなす。
それが帰国を境にして厚塗りのリアルな風景や人物の〈かたち〉から、奔放な明るい色彩が躍る自然や心象の抽象的な造形へと、作風を大きく変えていった。