「絵画とは何か」抽象的な造形への変容
戦没学生の絵の多くは、もちろん技巧的には未熟なものが多く、面白みにも欠ける。しかし、自画像をはじめ家族、恋人、友人らを描いた肖像画などの残された作品には、明日には戦場で死ぬかもしれない若者たちの切実な運命が投影されている。
「これを描いておきたい」という、〈絵画〉に対する技巧を超えた祈りが、戦後を生きながらえていまもカンバスへ向かう同世代の画家の魂を捉えた。それは自らの〈絵画〉に対する向き合い方にも、少なくない変容をもたらした。
戦没画学生の遺作をさらに掘り起こして、一つの美術館に収蔵、展示しようという構想を野見山のもとに持ってきたのは、20歳も年下の画商の窪島誠一郎である。
『祈りの画集』に収録された戦没画学生の作品に心を動かされ、さらに発掘して彼が持つ長野県上田市の「信濃デッサン館」に収蔵、展示したいという構想で、野見山に協力を仰いだ。画家はこれにこたえて、二人はおよそ1年半にわたって全国各地の戦没画学生の遺族を訪問し、遺作を探し歩いた。
作品が集まるにつれて構想は広がり、窪島が個人や企業、金融機関などに寄付や融資を働きかけて、このデッサン館の分館として専用の美術館を建設する計画に発展した。
こうして1997年に「無言館」と名付けた戦没画学生の遺作を集めた専用美術館が同じ上田市内に開館した。収蔵作品はおよそ600点にのぼる。
戦時下、明日は戦地へ送られて落命するかもしれない日々、若い画学生がカンバスに描いた作品は、切迫した時間と未熟な技量のなかで〈絵画〉に託したいのちの「祈り」の表徴である。限られた時間とつたない表現のなかでかれらが残した作品のもたらす衝撃は、戦後の泰平の時代を生き延びた野見山に対し、「絵画とは何か」という自らの創造の原点へ立ち返らせる力となっていったはずである。
スランプを脱したのちに、彼の作品は画面から具象的なかたちや固有の場所などの記録性を失い、自らの心象や感覚の抽象的な造形へと激しく変容していく。鮮やかな色彩と奔放な曲線が自在に行き交う画家のカンバスは、劇的と言っていい転換を遂げていったのである。
1981年の『近づいてきた景色』はアトリエから望む海の向こうに太陽が沈む瞬間をとらえた作品というが、淡いブルーを基調とした画面には広大な海と太陽の風景の輪郭や風光はすでになく、画家が見つめる日没への心象だけが描かれている。
〈いつの間にかモノを見据えることを、ぼくは避けるようになってきた。いろんな要素で、ふくらんだ実在の人物よりも、人間が落とす影の動き、あるいは流れる水の気ままな時間帯、壁に滲みるあわい濡れ跡、跡というよりは消えてゆくものの残像。‥なんでそんな実体のないものばかり漁るようになったのだろう〉
ここには現実の風景は解体した構築物の残滓として漂うばかりで、画家の意識や感覚だけが自在な曲線や奔放な色彩によって躍動している。
これは〈戦争〉を挟んで写実絵画が解体してゆくなかで、102歳で没するまで現役であり続けた野見山暁治という画家が、さまよいながらたどり着いた〈20世紀絵画の終焉〉の一場面であるのかもしれない。

