大学紛争の「波」
きっかけの一つはやはり「石膏デッサン」の呪縛であったのかもしれない。
1970年前後、大学紛争で「反体制」を唱える学生たちの反抗が怒涛のように広がり、野見山が教える東京芸大にもその波が押し寄せた。
巨匠たちが引き継いできたアカデミックな教育に異議を唱える学生たちを前にして、野見山は「入試の課題を変えてみてはどうか」と教授会に提案した。
入試科目の「石膏デッサン」を廃止するという思いきったアイデアは、当然教授会の執行部の強い反発を呼んだ。
「それじゃ何を描かせるのですか」
最年長の油画科の主任教授であった小磯良平は、当惑を隠さない。
〈アングルの冷たさと厳しさに憧れたこの画家は、写生をすることがやたら好きで、若いころ学んだ石膏像を基礎とすることに、むしろ学校の存在理由を見出しているようにさえ思えた〉(野見山暁治『創作ノート』)
神戸のクリスチャンの家庭に生まれて自身も敬虔な信仰を持ち続けた小磯は、端正で優雅な肖像画で知られた、いわば日本の洋画界の貴公子である。藤島武二門下で東京美術学校在学中に「帝展」に入選、留学で渡仏してルーヴル美術館で出会ったヴェロネーゼの『カナの巡礼』に感動し、西洋画の伝統である群像画への関心を深めた。サロン・ドートンヌに出品、帝展無鑑査となり、戦時下の1941年に発表した『斉唱』は、西洋美術の骨法をふまえた若い女性の群像画の傑作として、大きな評価を得た。
しかし、戦時体制の下で従軍画家としてビルマ(ミャンマー)などに派遣され、いわゆる戦争協力画を描いたことに、戦後の画家は大きく傷つく。自身の画集からこうした作品を排除して画壇に戻った小磯は、戦時下の転変に揺さぶられた経験があればこそ穏やかな写実絵画に徹して、紛争下の大学行政官としての振る舞いも慎重をきわめた。
学生たちの要求が激しくなり、校舎に立てこもって教授たちをつるし上げる「大衆団交」の矢面に立った小磯は疲れ果て、「もう終電がなくなるから」と席を立とうとすると、学生たちは体を張ってそれを押しとどめた。
教授会にも顔を出さず、「石膏デッサン廃止」の持論を唱えていた野見山はさすがに居心地が悪くなり、小磯にあてて辞表を提出して故郷へ戻ると、そこへ小磯から「どうか東京へ戻ってきてください」という手紙が追いかけてきた。
〈ぼくは勇気がないのです。小磯先生は泌々《しみじみ》そう言った。ぼくは現代のアメリカ画壇、リンドナーとか、ああいう人たちの絵を、いつも画集で見ています。ぼくもやってみたい、だけど怖い、勇気がなくて〉
提出した辞表を慰留した小磯は、続けてそう言った、と野見山は回想している。
「表現の方法に一定の約束があってたまるか」
パリに留学していたころ、野見山は「19世紀ローマ賞絵画展」という展覧会を見て、ある「うそ寒い感覚」を覚えたことを後年、思い出して書き留めている。
ローマ賞というのはフランスのアカデミーが美術を志す学生に出していた最高賞で、これを獲得すれば一人前の画家として認められるという栄誉である。西欧の神話や歴史上のモチーフを課題として、遠近法に従って人物や風景を正確に捉え、空気の層や物質の質感を油彩画という手法で画面に写すことが、ここでは最も重視される。
〈モノの立体感とその肌ざわり、あるいは衣裳の襞のより具合といった細かい表現にも、確固とした技法の約束があるようだ。それを身につけることに懸命だったわたしたちの先駆者が、あんなにも教室でうるさかったのは当然だったのかもしれない〉
留学中と帰国後に野見山が描いてきた風景画や人物画も、そうした約束事をふまえたうえで、新しい美術の潮流のデフォルメや内面化を試みたものにほかなるまい。それゆえ、ローマ賞の作品から受けた「うそ寒さ」は、フランスから帰国した画家が異郷で出会って学んだ絵画の手法と、日本という異なった文化のもとで育った〈自己〉との乖離のなかで、ひときわ高まっていたのであろう。
