2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年5月5日

 「一律にモノの見方を強制されてたまるか。表現の方法に一定の約束があってたまるか」

 そんな反抗的な気分が画家の周囲に漂いはじめた。作品の画風も風景や人物の具象的な造形が影を潜め、大胆な曲線と鮮やかな色彩が乱舞する抽象的な画面に変化を遂げてゆく。この転換点として画家があげているのは、1966年の『蔵王』である。

 スキーででかけた蔵王の樹氷からインスピレーションを得たこの画面は、紺青の空を背景にして白い樹氷の巨大なつらなりをデフォルメさせた作品で、ここにはすでに具象画としての〈蔵王〉という写実的な風景の固有性や造形性はない。〈絵画の革命〉が彼のなかで次第に大きなうねりになっていった。

パブリックアート(ステンドグラス)「いつかは会える」(東京地下鉄「明治神宮前」駅)(掬茶, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 ローマ賞が廃止になったというニュースを聞いたのは、ちょうど野見山が母校の東京芸大の教官として、改革を求めて荒れる学生たちに向き合い、「石膏デッサン廃止」を唱えて教授会で孤立していたころのことである。

 世界中の若者たちが古い秩序に反旗を翻し、異議申し立てを繰り広げた時代の潮流の中で、西欧の歴史のなかで育まれた〈油彩画〉を取り巻く古い秩序も崩れ始めていたのである。

 伝統の「瓦解」は、帰国後に母国でカンバスに向かう野見山自身のモチーフや造形への迷いとなった。スランプに陥り、描くべきものが見えなくなった。

 〈絵が描けなくなった。画面に引く一本の線の効果や反応が、ぼくのなかで起きてこない。画面とぼくとの間に、感情のやり取りがない。感覚の跳ね返りがない〉

戦没画学生の遺作の取材と蒐集

 具象画家から脱して色彩と抽象的な造形に向かう決定的な転換は、それから5年ほどを経た1976年、野見山の画家としての後半生に大きな刻印をもたらした戦没画学生の遺作の取材と蒐集、という仕事が少なからずかかわっているはずである。

 戦争末期に同じ東京美術学校に学びながら野見山と前後して軍の召集を受け、中国やアジア各地で戦没した学生たちの遺作を探してその画集を編むという企画で、詩人の宗左近、評論家の安田武とともに画家は戦没学生の遺族を訪ねて全国を歩いた。それは『祈りの画集』と題して映像化され、出版されて大きな反響を呼ぶ。

 同じ時代に同じ学窓でカンバスに向かい、〈絵画〉という空間に未熟なデッサンで挑みながら戦地に散った若い魂の軌跡は、野見山の心を大きく動かした。そこには自身が出征の折に自宅で催された壮行会の一場の記憶が横たわっている。

 繰り上げ卒業で召集され、現役兵として入営する前夜、彼は九州の自宅で開いた壮行の宴にのぞんだ。家族と親戚や近隣の人びと、それに来賓の陸軍将校らが大広間に顔をそろえ、酒杯をあげた。

 「お国のために戦って勲を立てろ」「一命を捧げて男子の本懐を遂げよ」「敵をうち倒せ」‥‥。勇ましい〈祝辞〉が延々と続いた。

 最後に「出征兵士として挨拶を」と求められたとき、彼のなかで何かがはじけた。

 もうアッツ島は玉砕して、戦局は押し詰まっている。最前線へ出れば死ぬことは目に見えている。〈厭戦〉の気分を引きずったまま、22歳の野見山はそこで言った。

  〈「我はドイツに生まれたる世界の一市民なり」とあるドイツの詩人が言っています。私は日本に生まれた世界の一市民です。それなのにどうして、他民族とたたかわなくてはならないのか。そんなことで死にたくはありません。なんで私に敵がいるんですか。なんでそういう人たちと殺し合わなければならないんですか〉

 ほとばしるように、言葉が溢れ出した。

 一瞬、場は水を打ったように静まり返ったが、さらに続ける野見山に父親は「やめろ」と叫び、来賓の陸軍将校は「貴様、もう一度言ってみろ」と鬼のような形相で怒鳴った。もう壮行会の体は損なわれて、会場は戦争末期の疲弊と憤怒の混じった、重苦しい空気に包まれた。


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