2026年8月16日(日)

絵画のヒストリア

2026年8月16日

パリで生きる日本人、藤田嗣治

 そのころ画家の藤田嗣治はパリのモンスーリ公園に近いアトリエで「ユキ」と呼ぶモデルのリュシー・ヴァドゥーと暮らしていた。「乳白色の肌」の裸体画の神秘的な造形が喝采を呼んで、「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれる人気画家になっていた藤田は、前年に近くの大学国際都市の中に出来たパリ日本館のロビーに壁画の大作『欧人日本へ到来の図』を収めて披露し、大いに注目される存在だった。

藤田嗣治「欧人日本へ到来の図」(1929年) 油彩・金箔・板パネル パリ日本館©CiuP/Photo_lgor_Stefan/2003(パリ国際大学都市日本館提供)

 〈レオナール・フジタ〉の名で国際的にも知られるようになった画家のアトリエには、その成功を恃(たの)むように日本からやって来た若い画家たちが立ち寄り、さながら梁山泊の眺めを呈した。

〈パリの寵児〉藤田嗣治(Georges Chevalier, CC BY 4.0 , via Wikimedia Commons)

 ところが、そこへ世界恐慌が起きた。世相が暗転して、華やいでいた藤田の身辺もいささかの翳(かげ)りを帯び始める。

 再会した三千代を伴い、光晴がアトリエの藤田を訪れたのはそんな時節だった。松尾邦之助という、ジャーナリストで当時のパリの在留邦人の元締めのような人物の紹介で、訪れた藤田のアトリエには大柄で色白のユキと居候のような若い詩人のデスノスが同居していた。

 画室には田舎芝居の緞帳のようなものや祭礼の神輿など、日本に一時帰国した時に持ち帰ったというガラクタが積み上げられていて、奇妙な風景を作っている。

アトリエのフジタ(old photo, Public domain, via Wikimedia Commons)

 〈パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人でなくてはいけない。フランスかぶれした日本人など、フランス人は何の興味も持たないからね〉

 10歳ほど年上の藤田はそういって、この土地で生きてゆく心得を若い光晴に説いた。

 傍らのエーテルのようなものを時々嗅いで、意識を混濁させてカンバスに向かうようだった。面相筆で画紙にさらさらと描いてみせる女や猫はさすがに巧みで、デッサンに使うのか、机の引き出しには夥しいポルノ写真があった。

 三千代が旅の間に書き溜めた詩をフランス語に訳してここで出版したいという大それた望みをあたためていて、藤田に相談すると「ガリ版で何でもいいから刷って街頭に立って売ればいい」といい、覚束ないフランス語で下訳まで手伝ってくれた。


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