2026年5月29日(金)

日本主導で平和の再構築を

2026年5月29日

 しかし、国策の手段として戦争と国際法を活用してきた近代日本の外交路線は、第一次世界大戦後、侵略戦争が違法化されていく中で、根本から行き詰まっていく。戦後創設された連盟はその規約で、国家が戦争に訴える自由に一定の制限を加え、違反して戦争を行う国家を、連盟加盟国による制裁の対象とした。

 28年には、日本を含む当時の主要国15カ国が不戦条約に調印し、国策の手段としての戦争の放棄、紛争の平和的解決を誓約した。この戦争違法化という新しい潮流に対し、日本政府は消極的な対応に終始した。確かに日本は、不戦条約の締約国に名を連ねたが、その理念に賛同していたわけではなく、大勢順応的な判断であった。

 安達の存在は、大戦間期の日本にも、戦争違法化への肯定的な眼差しが存在したことを示している。安達は不戦条約を「ユートピー(理想主義)」と批判する人々に対し、「不戦条約は重要なる進展『エヴォリューション』を世界に及ぼすに違ひないと私は茲に断言致します」と訴えた。

 安達は、不戦条約後も国家間戦争は続くと予測する一方で、不戦条約を契機に、裁判などの平和的な手段による紛争解決が漸進的に世界に普及していく未来を展望した。そして、こうした新しい平和の潮流を理解し、それと適合するように国益を追求していくことに、日本の針路を見出した。

裁判官として目指した平和
突き付けられた満州事変

 PCIJの判事候補となったことを告げられた際、安達の脳裏にまずよぎったのも日本の国益であった。判事の選挙に向けて、安達は次のような不安を吐露している。もし自分が落選すれば、9年間日本人判事が不在になってしまうが、そのようなことは「日本の大不利益であり、又日本の権威にも関はる」。安達は、各国が推薦する候補者との競争を勝ち抜き、限られた判事席を獲得することを、「お国に対する報恩の一端」とすら考えていた。

 他方、安達は一度当選し、職務に従事する時には、PCIJ判事はその出身国の国益を脇に置き、中立的かつ公平な立場で紛争処理にあたり、法と正義に則った高次の平和を追求しなければならないと考えていた。32年8月の書簡において安達は、「裁判官の母国政府を、われわれ判事自身の『妻(femme)』とみなしてはならない」と強調している。

1933年、ジュネーブで演説する松岡洋右。「日本の主張が認められなければ国際連盟脱退はやむを得ない」と退場、毅然とした態度は日本国内で歓迎された(THE MAINICHI SHIMBUN/AFLO)

 「法の支配」の漸進的発展を展望していた安達に、大きな挑戦を突きつけたのが、満州事変であった。この時、PCIJの所長であった安達は満州問題をPCIJに付託することに消極的だった。判事たちは満州についてほとんど知識がないため、日本の立場は理解されず、「我方ハ極メテ不利ナル立場ニ陥ル」というのが安達の読みであった。PCIJがますます多くの国際紛争で活用されることに期待を寄せていた安達にとっても、「日本の生命線」満州は、明確にその例外だった。満州問題をめぐる紛糾の末、33年3月、日本は連盟脱退を通告する。


新着記事

»もっと見る