2026年6月28日(日)

偉人の愛した一室

2026年6月28日

 松永安左エ門が、単に電力王ではなく、時に〝電力の鬼〟と称されるのは理由がある。戦前、電力の国家管理を企図する軍部や官僚に強く異を唱え、戦後の復興期には国策会社の分割民営化を断固主張するなど、電力事業への信念を貫き続けたからだ。その発展のためには、消費者の反発を恐れず値上げにも踏み切った。

 この松永が埼玉県に設けた山荘が東京国立博物館によって維持管理されている。主屋である豪農屋敷の威容を眺めた時、松永の人物像そのままだな、そんな思いがわいた。

武蔵野の面影を残す豊かな木々の中に姿を現す黄林閣。東久留米から移築された豪農屋敷の茅葺きの大屋根が醸す堂々たる風格は、訪れる者に松永安左エ門の美意識とスケールの大きさを今に伝えている(WEDGE 以下同) 写真を拡大

 しかし、松永にはもう一つの顔がある。近代を代表する茶人の松永が丹精した一廓も、この山荘にある。豪放剛毅と繊細さ、偉人の両面を具現した建築群が、豊かな木々に守られて遺されていた。

 壱岐の富裕な商家に生まれた松永は、青雲の志を抱いて慶応義塾の門を叩く。だが、学業半ばでビジネスに目覚め、石炭商、さらには電力事業へと翼を広げてゆく。40歳で九州電気協会を設立すると、続いて1922(大正11)年には中部地方に進出、東邦電力を設立する。さらに、関東進出後は東京電燈と競い合い、和解して同社の取締役に就いている。29(昭和3)年のことだった。

 電力王となった松永は、この頃から別荘作りに励んだ。まずは、武蔵野の面影が残る旧柳瀬村に広大な土地を取得する。一説に、親交ある東武鉄道の根津嘉一郎が近くに山荘を構えていたからというが、さらに、2年をかけて東久留米にあった豪農の屋敷を手に入れた。天保年間の建物で、移築に際して屋根を高くして改造を施している。2年をかけて完成し、「黄林閣」と名付けられた松永理想の田舎家は──。

多くの賓客や文化人を迎えた玄関には、穏やかな笑顔を浮かべる松永安左エ門の写真が飾られている

新着記事

»もっと見る