第二次大戦の戦禍が欧州全域を覆いつつあった1940(昭和15)年9月──。
東欧リトアニアの首都カウナスからベルリンに向け発車を待つ列車の中で、一人の男が必死にペンを走らせていた。男の名は杉原千畝、カウナスの日本領事館に勤務する外交官である。杉原が記していたのは、危機が迫るユダヤ人たちの命綱、日本への渡航許可証であった。
前年にドイツがポーランドを占領すると、その地のユダヤ人たちはナチスによる迫害を恐れ、リトアニア経由で安全な国への渡航を目指した。だが、リトアニアではソ連の進駐で各国の大使館や領事館が閉鎖に追い込まれており、いまだ業務を続けていた日本領事館へ、ビザを求めてユダヤ人たちが殺到する。モスクワからシベリア経由で極東に逃れるのが、残された唯一の道だった。
杉原はこの要望に応えるため、条件を満たさない人へのビザ発給を本国に打診する。だが、外務省はこれを却下し、逆に、条件を厳しくするよう指示する。再度の要望も退けられると、杉原は職を失っても彼らを救おうと決心、領事館が閉鎖されてベルリンに退避するその間際まで、ビザや渡航許可証を発給し続けた。その数は確認されただけで2139通に達し、命をつないだ人は6000人に上ると推定されている。
杉原が歩んだ人生とは──。
税務署員の次男に生まれた杉原は、早稲田大学を中退して官費留学生となり、中国のハルビンでロシア語を学んだ。外務省書記生に採用されると、32(昭和7)年の満州国建国とともに外交部に出向する。抜群の語学力でロシアとの満州鉄道譲渡交渉を有利に導くなど、ロシア語のエキスパートとして頭角を現す。
だが、その語学力に眼をつけた関東軍からスパイになるよう持ち掛けられ、それを拒否すると、ロシア人の夫人がスパイ容疑をかけられる。軍部の横暴さに心底嫌気がさした杉原は、夫人の身を案じて離婚し、35年、満州国外交部を退官して帰国する。日本外交きってのロシア通は、強い反骨精神の持ち主でもあった。
しかし、緊迫する国際情勢が杉原を放ってはおかなかった。ポーランドを侵したドイツがいつソ連に攻め入るか、その正確な情報を探る重大な任務を帯び、杉原はリトアニアのカウナスに赴任する。すでに、ドイツのみならず、ナチスが支配した西欧各国でユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れ、東欧でもユダヤ人たちの必死の逃避行が始まっていた。

