日本各地でレトロな街並みの魅力が見直されているが、その先鞭をつけたのはこの街ではなかったか。かつて横浜、神戸と並び称される国際貿易港として栄えた門司港の周辺地区である。大正期に作られた駅舎をはじめ、戦前の洋風建築が数多く残され、内外の観光客を集めている。
江戸時代には九州の玄関口は小倉だった。明治に入り筑豊炭田の開発が進むと、その積出港として、1889(明治23)年から門司の港湾の整備が始まる。2年後には鉄道も敷かれて発展の土台が整えられた。
日清戦争以降、日本は朝鮮半島から中国大陸へと侵攻を進め、大陸に近いこの地は軍需産業が栄え、兵士や物資の輸送基地としても好景気に恵まれる。さらに、筑豊炭田が国内生産の半分を担い、近くの八幡製鉄所がフル稼働する状況にあった。海運業のみならず、巨大商社や金融資本が軒並み支店を開設し、新聞社も、県都の福岡市ではなく、門司港に多くの記者を置いた。中心街にある栄町銀天街の地価は東京の日比谷に匹敵したとされる。
人とお金が集まる場所には花柳界がつきものである。門司港一帯には料亭が多く作られ、芸妓は200人をゆうに超えたというから凄いものだ。今回取り上げるのはそんな街を代表した社交楼閣と、そこを贔屓とした立志伝中の人物である。
出光興産の創業者、出光佐三は1885(明治18)年に福岡県宗像郡に生まれた。神戸高商(現・神戸大学)を卒業、25歳で門司に出光商会を設立する。主に機械油や漁船用の燃料を売って商売を広げ、さらに、大陸に進出して満鉄へ車軸油を納入するなど、事業を拡大してゆく。1940(昭和15)年に東京に出光興産を設立することになるが、それまでの間、門司商工会議所の会頭として地元財界を牽引し、中央からやってくる政府高官や企業の幹部を相手に顔役の務めを果たした。その際、接待場所として重用したのが門司港を見下ろす高台の「三宜楼」だった。

