2025年3月26日(水)

偉人の愛した一室

2025年3月23日

 幕末、諸国に名を知られた私塾が大坂にあった。蘭学者の緒方洪庵が主宰する「適塾」である。西洋の学問、なかんずく医学の知識を求めて全国から若者たちが集い、最盛期には〝門弟3000人〟と謳われた。その中から福沢諭吉をはじめとする多数の人材が輩出され、新しい世を切り開く原動力となった。偉人たちのひたすらな向学心、弾けんばかりの熱気を吸い込んだその建物が、大都会のビル街に往時の姿を遺している。

 洪庵はオランダ語の医学書を翻訳して多数の著作を残した。なかでも内科と病理学に関する研究書は広く世に普及し、この分野の発展に大きく寄与した。さらに、天然痘の予防のために全国に種痘所を設け、晩年には幕府に請われて西洋医学所の頭取に就いた。

 幕末の医学界を牽引した傑物であった洪庵だが、もう一つの顔が、すぐれた教育者であったことだ。

 私の好きな司馬遼太郎作品に、総司令官として討幕戦を勝利に導いた長州人、大村益次郎を描いた『花神』がある。大村の朴訥だが滋味深い人物像がすばらしく、時代が大きく変化する中、身分制をものともせず運命を切り拓いてゆく人々が鮮やかに描かれる。その冒頭が、適塾で学ぶ大村たちの学問にかける日々だ。

かつて適塾の東には海外文化の入口であった長崎俵物会所があり、西にはシーボルトやオランダ商館員も宿泊し、蘭書の取引も行われていた銅座があった。現在は史跡公園となっており、読書にふける洪庵の像が鎮座する(WEDGE以下同) 写真を拡大

 寄宿生は2階の30畳ほどの部屋で集団生活する。1人に許されるのは畳1枚。昼夜、そこで勉学に励むことになるが、蘭書の翻訳力を披露する輪読会の評価によって、畳1枚ずつ良い場所に移動してゆくことができた。暗く底冷えのする隅っこから陽の差し込む快適な場所へ移るには、激しい競争に勝たねばならない。それを乗り越えて優秀な成績を残した者のみ、1階で洪庵直々の指導を仰ぐことができた。大村や福沢は塾頭の地位に就いている。

受付を入ってすぐの場所に教室があり、洪庵の木像が飾られている。当時は教室の他、診察室として使われることもあったそうだ

 身分による秩序を重んじた江戸社会では、低い身分にある者が身を立てるとしたら、医者を目指すのが近道であった。藩の奥医師への道が開かれていたからだ。大村は長州の村医者の子弟であり、本人も故郷で医家を継ぐ心積もりだったが、時は風雲巻き起こる幕末、適塾で磨かれた俊英たちを世の中がほうってはおかなかった。大村、福沢以外にも、明治維新への針を大きく動かした橋本左内、戊辰戦争で知られる大鳥圭介や医師の高松凌雲、さらには日本の衛生行政を確立した長與専斎ら、多士済々が世に羽ばたいた。

 その背景に、適塾ならではの競争システムと、洪庵が医者に求めた高い道徳性、医術は他者へのいたわりの心に拠るべしとの理念があった、そう司馬は書く。洪庵の私欲のない優しい人柄について福沢はじめ多くの人が書き残しており、希代の教育者が生んだ奇跡、それが適塾であったといえるのだろう。


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