2025年3月28日(金)

偉人の愛した一室

2025年3月23日

ビルの谷間に立つ
大阪の誇り

淀屋橋駅からビル街を抜けると歴史ある建物が姿を現す。間口はさほど広くないが、奥行きがあり、建坪は90坪ほどある(WEDGE)

 大阪屈指のオフィス街、淀屋橋駅に近い場所に適塾はある。ビルが林立する中に立つ江戸期の遺構はかなり目をひくが、ここ北浜はかつて豪商たちが軒を並べた商都の象徴であり、適塾も洪庵が両替商の天王寺屋から買い取った建物であった。

 洪庵亡き後、子息や弟子たちによって適塾は受け継がれ、大阪医学校を経て大阪大学へと繋がってゆく。現在も同大によって管理されており、適塾記念センターの松永和浩准教授によれば、保存改修が議論された際、文部科学省は他所への移築を勧めてきたという。

 「ですが、総長を会長とする適塾記念会や教員らには、この地に残すことにこだわりがあり、全面解体修理による現地保存を選択しました」

 大阪人のプライドといえるかもしれない。

 奥行きの深い二階屋は、1階が洪庵の書斎や講義室の他、応接間、客座敷、さらに家族の生活空間となっていた。長い吹き抜けの台所と通り庭、広い前栽に大きな蔵など、かつての姿をとどめるたたずまいは、豪商家屋としての価値も高いだろう。

1階には中庭をのぞむ洪庵の書斎がある。置かれている火鉢は緒方家から譲り受けたものだという

 私が特に見たかったのは、塾生たちが畳1枚を争い一心不乱に学んだという2階の大部屋だった。

2階の塾生大部屋。「姓名録」に記載された636人分でも、門下生の出身地はほぼ全国にわたることがわかる
二階の勉強部屋に行くには段差の大きな箱階段を上る必要がある

 階上へ箱階段を登ると、女中部屋の先に小間があり、ガラスケースの中に古い書物が展示されている。称して「ヅーフ部屋」には、塾に1冊しかない蘭和辞書が置かれていた。蘭書の解読には必須だから、おそらくは奪い合いの状態だったろうし、みなが寝静まった深夜、首っぴきでにらめっこしていた猛者もあったろう。何しろあの福沢諭吉が〝このうえにしようもないほど勉強した〟そう述懐しているほどだ。

オランダ語を翻訳する「ヅーフ辞書」。この辞書が置かれた部屋の明かりは消えることがなかったとされる

 その奥が輪読が行われた大部屋である。畳28枚、中心に一本柱が立つだけで、天井は高く梁がむき出しになっている。夏は蒸し風呂、冬は凍えるような寒さだったろう。みな貧乏だから着のみ着のまま、異臭漂うたこ部屋の中で、目をぎらつかせて新しい学問をどん欲に吸収していった。新しい世での立身を信じて。

大部屋の中央の柱には、寄宿していた〝血気盛んな〟塾生たちが付けた無数の刀傷がそのまま残っている

 いま、世界は100年に一度の変革期だという。日本人が高度成長の余韻に浸っていたこの30年は、もしかしたら、江戸の天下太平の如き状態だったのかもしれない。だとするなら、かつての蘭学、いまはさしずめAIやデジタル技術において、日本人にはがむしゃらな競争も必要なのではないか。適塾の大広間でそんなことを思った。

当時の1階や2階の間取りを再現した模型も展示されている
台所は吹き抜けのように天井が高く、奥の前裁と表の入口をつなぐ「通り庭」にもなっている
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Wedge 2025年4月号より
民主主義が SNSに呑まれる日
民主主義が SNSに呑まれる日

「超選挙イヤー」の2024年。日本でも東京都知事選や衆院選、兵庫県知事選があった。一連の選挙で〝主役〟のように存在感を高めたのが、「SNS」だ。刺激的な情報や分かりやすい「言葉」に翻弄された有権者も少なくなかっただろう。日本の民主主義は今、押し寄せるSNSの荒波に呑み込まれようとしている。だが、問題をそのことだけに矮小化せず、本質的な課題にも目を向けるべきだ。今年は参院選も行われる。「民主主義×SNS」の未来は吉と出るか凶と出るか─。


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