京都仕込みの
〝粋〟が光る建築
木造3階建ての高楼建築、門司港レトロを代表する三宜楼は、日露戦争の頃に三宅アサによって創業された。アサは京都祇園で生まれ育ち、下関を経てこの門司港に腰を据えたのだが、京の水は忘れ難かったと見える。
石段を上がって玄関を入ると、まず目につくのがたくさんの下地窓だ。それぞれ意匠が異なり、例えば2階への階段脇には松、雲、山をモチーフに3つの窓が切られ、上がった正面には月が待ち構える。全館で40カ所、すべて異なる高度な装飾が施され、まさに祇園の粋が写し取られているかのようだ。
佐三が大人数の宴席に用いたのが2階の「百畳間」である。60畳を超える広さに、港を見下ろす縁側が回されている大広間、特筆すべきは16畳もの舞台だろう。折り上げ格天井に、欄間が設けられるほどの奥行きがあり、踊りや演能に用いられた。料亭で能を演じるのは極めて珍しい。アサは芸事へのこだわりが強く、京都から師匠を招いて芸妓を仕込んだ。客にも粋人や文化人が多く、3階には佐三が好んだ部屋や俳人・高浜虚子に愛された部屋もあった。
浴衣姿の佐三の写真が残されている。ご案内くださった方によれば、この地では汗を流して宴席に臨むこともあり、三宜楼にも風呂が用意されていた。門司ゴルフ倶楽部の発起人だった佐三なら、ラウンド後に浴衣姿で一献、そんな接待もあったろうか。美しい芸妓に囲まれて寛ぐ男たちの姿に、門司港のかくれなき繁栄が見事に写り込んでいる。
敗戦で軍需が失われ、門司港は繁栄の歴史を閉じてゆく。だが、佐三の人生にはヤマ場が待っていた。53(昭和28)年、世界のエネルギーを支配していた石油メジャーに一矢報いた「日章丸事件」が起こったのは、佐三68歳の折だった。
英国資本に利益を独占されていたイランは石油の国有化を一方的に宣言、これに抵抗する英国がイラン石油の販売を阻止する動きに出た。イランの苦境を見かねた佐三は、メジャーにコントロールされている石油貿易に風穴を開ける目的もあって、自社のタンカー、日章丸のイランへの派遣を決意する。国際紛争を招きかねない重大事、イランと秘密裡に交渉を重ねる一方で、国際法に抵触しないか、日本政府に責任が及ぶことはないか配慮がなされ、さらには、国際世論の動向も考慮して念入りに計画が練られた。
元船乗りであった社員らを乗せて神戸を出港した日章丸は、英海軍の警戒網を見事かいくぐり、イランからガソリンと軽油を持ち帰る。その間、日章丸の動きが刻々と世界に伝えられ、これを妨害しようとする英海軍の動きも報じられて、まるで戦記物をみるかのようだった。その様子は近年、小説『海賊とよばれた男』に描かれて話題ともなった。
英メジャーにより日本での法廷闘争に持ち込まれたが、最終的に出光側の勝利に終わる。その後イランの首相が失脚し、佐三のビジネスは短期で終わったが、日本とイランに良好な関係をもたらし、英米メジャーによる石油独占が崩される契機ともなった。世界を相手に示された日本の「石油王」の気骨、今となっては隔世の感を抱かざるを得ない。
