2025年6月17日(火)

偉人の愛した一室

2025年5月25日

 ガザ、ウクライナにおける停戦、休戦協定に世界の眼が向けられている。今から130年前の春、やはり世界の注目を浴びる和平交渉が日本の海の玄関口、山口県下関で開かれていた。日清戦争講和会議である。

 朝鮮半島の権益をめぐって両国が対立、当地で起こった農民反乱をきっかけとして日本は朝鮮に出兵し、これに対応した清国との間で戦争状態に突入した。陸戦兵に優る日本は首都漢城を占拠し、北方の平壌をも陥落させる。迎えた一大決戦、欧米列強も注目する黄海海戦で日本は清の北洋艦隊を撃破する。互角か、やや清が有利と見られていた中での完勝は、列強のみならず、山縣有朋ら軍部首脳すら驚かせた。

 戦闘が国内に及ぶのを恐れた清は、西太后の信任厚い大物政治家、李鴻章を全権として日本に派遣、100人を超える交渉団は1895(明治28)年3月19日、下関に上陸した。迎え討つのは総理大臣伊藤博文と、この戦争を主導した外相の陸奥宗光である。

 交渉の場となったのは関門海峡を臨む料理旅館、伊藤ら長州出身の高官に愛された「春帆楼」であった。まずは休戦協定の締結を求める清に対し、日本側はこれを拒否して講和条約の締結を迫る。ずるずると講和に手間取った場合、欧米列強の干渉が強まり、日本の望む成果が得られなくなる恐れがあったからだ。

春帆楼(左)と隣接する日清講和記念館(右)は源平合戦の舞台となった関門海峡を見下ろす高台に立っている(WEDGE以下同)
日清講和記念館には年間で9万人以上が来館しているという。取材した日も、訪日外国人が次々と来館していた

 緊迫の交渉が続く中、日本は李鴻章に無言の圧力をかける。下関市立歴史博物館の松田和也氏によれば、議事録には、伊藤が李にこう語りかけた記述があるという。

 「広島には60隻もの輸送船が集結しており、昨夜来、20隻がこの海峡を通過してゆきました」


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