国運をかけた交渉が行き詰まる中、伊藤は眼前に広がる海に目を向けたろうか。目と鼻の先は壇ノ浦、源平が雌雄を決した場所だった。
下関条約の
歴史の重み
交渉最中のテロを防げなかったことで、日本に対する国際的な非難が高まり、政府は窮地に陥る。李の回復を待って交渉を再開した伊藤と陸奥は譲歩に転じ、3月30日に李の面子を立てて休戦協定を結んだ。翌日から講和の協議に入り、4月17日に合意にこぎつける。締結された条約では、朝鮮の独位を認め、台湾と遼東半島を日本に割譲したうえ、2億両の賠償金を日本に支払う内容となった。この額は日本の国家予算の2倍に相当し、清にとっては苛酷なものだった。背景には戦闘中止を望む西太后の強い意向があり、李は賠償金の減額で抵抗しようとするも果たせず、無念のうちに帰国した。
日清戦争で日本は大きな成果を手にした。この10年前、清国はフランスと戦って善戦し、列強の中国侵略は足踏みしていた。だが、この決定的敗北によって侵略が再開され、東アジアの軍事的緊張は高まってゆく。日本は軍事力の強化を迫られ、戦果に沸く国民の支持もあって、軍事大国への道を進むのである。
歴史学者の井上寿一は、下関条約は出来すぎだったのではないか、そう指摘する。日露戦争の講和では日本は賠償金を得られなかったが、譲歩したことにより、ロシアとの関係は安定した。日清、日露の講和、どちらが日本にとってよかったか─。歴史の皮肉といえよう。
習近平の歴史観は日清戦争の敗北を基点とし、そこから始まる中国の弱体化を覆すのを絶対的使命としている、そう指摘する中国研究者がいる。台湾の奪還がその焦点だとするなら、それが決定された下関条約の歴史的重みは計り知れない。
