すぐにも戦闘を再開する、そう脅しをかけたのである。世界の趨勢を知る陸奥と、これに説得された伊藤は早期の講和を目指していたものの、戦勝に自信を深める軍部には戦闘継続を主張する声が高まっていた。すみやかに交渉を決着させるには、李に決断を迫るしかなかった。
その時、不測の事件が発生する。李が宿舎への帰路、右翼青年による狙撃を受けて重傷を負ってしまう。日本中が仰天する事態であった。
ふぐ料理
発祥の料理旅館
春帆楼は今もふぐ料理を提供する高級旅館として内外の客を集めている。もとは、戊辰戦争にも従軍した眼科医が開業していた場所で、その死後、未亡人に料理旅館を開くよう勧めたのが伊藤博文だった。伊藤はご法度とされてきたふぐ料理を解禁し、春帆楼は晴れて公許第1号となった。いまに続く下関名物はそこから始まる。
「春帆楼」の屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けたという。 看板にも使われている店名ロゴには、伊藤博文が友人に宛てた手紙にあった文字が使用されている
交渉の場となった2階大広間は先の戦争で焼失したが、下関市が「日清講和記念館」を敷地内に開設するに際し、交渉の席で使われていた調度品ほか一切を保存展示していた。再現された交渉の場はそれゆえ、いまも圧倒的な威厳を放っている。
日清講和記念館は鉄筋コンクリート造りであったため、奇跡的に戦火を逃れた。館内中央には会議場が完全再現されており、歴史的な成果を残した交渉の場を肌で感じられる。館内には伊藤と李の遺墨なども展示されている
テーブルを囲み11の席が設けられている。黒漆塗に金蒔絵と螺鈿が施された豪華な椅子は、浜離宮から運んできたとされる。肘掛がつく一段大きな2脚は、伊藤と李の席である。テーブルには蒔絵の硯箱、ペン立てにインク壺、朱肉などが残される。足元には火鉢が置かれ、他にストーブも用意されていた。
天井や欄間にこれといった趣向は見られないが、床の間には書画が下がり、床脇には古伊万里の大皿が鎮座している。このあたりは料理旅館の大広間の佇まいである。
