2025年7月16日(水)

偉人の愛した一室

2025年6月29日

 その建物に足を踏み入れるなり、人を包み込むような柔らかさを感じた。居心地の良さとも言えようか。この連載を通じて多くの偉人たちの旧宅を訪ねたが、どこにもなかった印象だった。

客間よりも生活空間にこだわった邸宅からは、芙美子が家族との生活を大切にしていた様子がうかがえる(WEDGE以下同)

 戦前から戦後にかけて一世を風靡した作家、林芙美子が愛した邸宅は東京新宿区の外れにある。1941(昭和16)年8月の完成は、太平洋戦争に突入する直前のこと。戦時体制で贅沢が禁止される中、かくも手の込んだ家を建てることができたことに、芙美子の当時の人気ぶりを思う。森光子が長く舞台で演じたことでも知られる『放浪記』は、文学好きを超えて大衆へと広がり、芙美子を人気作家へと押し上げた。

 1903(明治36)年に北九州で生まれた芙美子は、両親が貧しい行商暮らしだったため、西日本各地を転々とする幼少期を送った。尾道でアルバイトをしつつ女学校を卒業すると、東京に進学した恋人を追って上京する。しかし、故郷へ戻る恋人に捨てられた芙美子は、東京でその日暮らしを送りつつ、幼いころからの憧れだった文筆家を目指した。

 その間の貧乏生活を描いたのが『放浪記』だった。女工や売り子、女給といった仕事を転々、食べるものにも困る生活だったが、その文章には巧みな描写力と詩情があって、逆境を跳ね返す逞しさにあふれていた。出版されたのは芙美子27歳の折、昭和恐慌のただ中で、生活に苦しむ庶民の深い共感を呼んだ。


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