2026年8月6日(木)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2026年8月6日

 長らく使われてきた「生活習慣病」という呼称は、近々消滅する可能性がある。この呼称に「『疾患自己責任論』の含意がある」とする批判が出されているからである。医療側に患者を傷つける意図がなかったとしても、そう受け取られるリスクがあるのなら、その使用は控えるべきであろう。

( kuppa_rock/BaileysTable/Bet_Noire/PeopleImages gettyimages)

 しかし、それでは「生活習慣病」の終焉のその後、国民の健康のために何が必要かを考えなければならない。建設的な代替案のないままに、看板だけを書き換えることは、公衆衛生に何ももたらさない。

「生活習慣病」と呼んでいた理由

 「生活習慣病」用語を導入した日野原重明の1985年当時の言葉は、今日でも読める(追悼◆日野原重明氏:患者指導にとって言葉は聴診器以上に大切だ.日経メディカル,2017)。いわゆる「切り取り」による誤読を避けるために、「患者指導のコツ」について問われた際の日野原の発言全体を引用すると以下の通りとなる。

 日野原 「一番いけないのは抽象的な言葉。昔使った「成人病とは」という説教をいくらしても分からない。分からないような言葉を使わないこと。だから、私は、習慣病だと名称を変えたのです。習慣がつくる病気を昔はすべて成人病と言ってきたわけです。子供のときからの習慣が悪ければ、成人病と言われた高血圧、心臓病、心筋梗塞、胃や腸の癌のような病気が発生する。だから、習慣を変える。そうすると、そういうふうな病気を防げる、あるいは悪化させない、というふうに言うと、分かるでしょう?」

 この日野原の発言が、今日では「生活習慣病は個人の不摂生が原因=自己責任」とする偏見を助長したとされる。実際には、日野原は、療養指導の際に患者にとってわかりやすい表現を提案したにすぎない。

 「成人病」などという抽象的な表現では、患者の自助努力を促すことはできない。この語は、あたかも「成人に達したらおのずと発症する疾患」のごときであり、そこには宿命論すら感じさせる。それに対して、日野原は、患者に自助努力を促すとともに、それに伴う自己効力感を健康推進への原動力にしようとしたのであろう。

 後段の日野原自身の例を挙げれば、「プロの言葉では説明しない。『尿失禁』は『尿もれ』という」のと同様の理由で、「成人病」を「生活習慣病」と呼ぶことを提案したのである。

 この日野原の意図を考慮すれば、最近、「生活習慣病」の代替案として提案されている「非感染性疾患」が問題外であることは明らかである。この語は、世界保健機関の提唱する"NCDs: Non-Communicable Diseases"の訳語として正確だが、患者にいかなるメッセージも伝わらない。


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