2026年8月6日(木)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2026年8月6日

医師の療養指導を否定してはならない

 筆者としては、日野原発言を擁護するつもりもなければ、「『生活習慣病』消滅」に反対するつもりもない。呼称は、誤解を招くなら、変更すればいい。筆者として危惧するのは、一見すると善意からなされるように見える、この自己責任論批判が、今後向かう先である。

 確かに、過去に「生活習慣病」概念を錦の御旗に掲げて、「だから患者本人が悪い」といった主張をした政治家やジャーナリストがいた。しかし、彼らに対する怒りをもって、「慢性疾患と生活習慣との関連を否定する」ことになるならば、それはまた別問題である。

 「生活習慣が疾病リスクに影響する」という事実命題と、「だから患者本人が悪い」という価値判断は異なる。たとえば、喫煙と肺癌、高塩分食と高血圧、運動不足と糖尿病、慢性的睡眠不足と心血管疾患との関連は、学問的に確立している。それを支持する膨大な疫学研究もある。これは、「事実の記述」であって、「人格の非難」ではない。

 「疾患自己責任論」批判が、結果として、療養指導を行う医師への非難に発展するなら、医師たちは沈黙するであろう。医師が患者とコミュニケーションをとらなくなれば、結果として、患者は孤立する。犠牲になるのは、生活習慣の意義について知識を持たない情報弱者たちである。

 医師は、「医療と保健指導を司ることによって、公衆衛生の向上と増進に寄与し、国民の健康的な生活を確保する」(医師法第1条)ことを本務としている。「生活習慣が慢性疾患に関与する」とは、ひとつの医学的知見である。この知見を提示すること自体を批判するのならば、医師はもはや「医師の任務」を果たせなくなる。

 大切なことは、「健康リスクを語ること」と「患者を断罪すること」との峻別である。公衆衛生が目指しているのは、前者である。前者の知見を、一部の論者が政治的な意図をもって曲解し、後者の主張をすることにこそ問題がある。

 「生活習慣が疾病リスクに影響する」と述べることは、健康を絶対視することではない。禁欲的な栄養管理や、過度なフィットネス文化は、文化的不寛容につながりかねない。しかし、「睡眠・運動・栄養・禁煙が健康維持に重要である」と社会に伝えることまで全否定すれば、それは医師をして「国民の健康的な生活を確保」させることを妨げ、健康管理はすべての国民の自己管理に委ねられる。

 生活習慣の自己管理能力には大きな個人差がある。健康情報に関するリテラシーにも個人差がある。質量ともに知識の不十分な情報弱者に限って、不可避的に健康を損ねる結果となる。すなわち、医師の諫言機能を「自己責任」批判を理由に否定すれば、それは、逆説的だが、究極の自己責任主義に陥るのである。

国家の管理ではない

 「生活習慣病概念は、個人の自由に属する事柄までを国家管理の下に置くことで、かえって行政責任を縮小しようとしている」との政策批判もあろう。つまり、国家は「健康自己責任を果たせ」と主張することで、医療費や福祉負担を抑制しようとしているという見方である。

 実際には、行政の自由への介入は、健康面だけではない。行政は、これまでシートベルト、バイクヘルメット、禁煙教育、感染症予防、ワクチン、熱中症対策などについても介入している。「ながらスマホ」に関しては、自転車においてすら、法律で禁じている。これらをすべて、「行政による私生活への介入」、「国家による個人攻撃」として断罪してしまえば、公衆衛生は崩壊し、交通事故は多発する。

 生活習慣の意義を説くことは、道徳主義者として、不規則な暮らしぶりを断罪することではない。ただ、「一緒に健康な生活を送りましょう」と勧めているにすぎない。


新着記事

»もっと見る