山形県山辺町に生まれ、明治から大正、そして激動の「戦間期」を生きた安達峰一郎。
柳原正治、篠原初枝(編) 東京大学出版会 4950円(税込)
安達の故郷である、山形大学の助成を受けて刊行された柳原正治・篠原初枝編『安達峰一郎 日本の外交官から世界の裁判官へ』(東京大学出版会)は、三牧聖子氏を含む10人の研究者が執筆し、これまで十分に知られてこなかった安達の人物像と業績を、多角的かつ丁寧に描き出した一冊だ。
その研究プロジェクトの成果をもとに、山形大学では2018年、「安達峰一郎研究資料室」を設置し、安達研究のさらなる発展を目指している。本書の知見に加え、同大学人文社会科学部教授で国際法学を専門とする丸山政己氏の見解も踏まえ、安達峰一郎とはいかなる人物であったのか、幼少期を含めてその生涯を振り返ってみたい。
教育者の祖父や山辺町長などを務めた父のもと、安達は4歳から和漢を習い始め、勉学に熱心な少年だった。
だが、勉強一筋の少年というわけではなかった。丸山氏は言う。
「山形県の方言に、目立ちたがりという意味を持つ〝あがすけ〟という言葉があります。安達はまさに、『山辺のあがすけ』とも呼ばれ、かなり腕白な子どもだったようです」
勉学にも遊びにも熱心だった安達は1889(明治22)年、帝国大学法科大学法律学科に入学。その際、大学教授の穂積陳重氏に宛てた書簡には、「国際法等ヲ精究シテ、大ニ国家ノ為ニ力ヲ致サントスル」と記した。安達は専攻する者が少なかった国際法を熱心に勉強した。それはなぜだったのか。
「日本は当時、小国の一つであり、西洋列強に伍していくためには、これからの時代、国際法が重要であることを見抜いていたのでしょう」(同)
安達は、同級生でのちに首相となる若槻礼次郎に次ぐ2番目という優秀な成績で、帝国大学法科大学法律学科を卒業した。
