いよいよ国際社会の舞台へ
卒業後、92年には外務省試補、93年には公使館書記生としてイタリアの在外勤務となった。三牧氏も触れているが、ローマに向かう旅路で、欧米諸国による植民地支配を目の当たりにする。
安達は、若い頃から筆まめであった。懐妊して日本に残る妻の鏡子に向けて、約50日間の航路で、27通もの書簡を送り、ベトナムやシンガポールなどで見た状況を赤裸々に記録している。
「イタリアへの航路は、安達のその後の思考を形成するものであったと考えてもよいのではないでしょうか」
のちに「世界の良心」とも称され、欧米中心の国際社会からも高く評価された安達だが、理想論を掲げるだけでなく、日本の国益を見据え、一等国としてのプレゼンスをいかに高めるかを冷静に判断する現実主義者としての側面も併せ持っていた点も見逃せない。
安達は、1905年に日本とロシアとの間で行われたポーツマス日露講和会議に全権委員随員として参加した際、戦勝国の日本が譲歩し、領土の割譲や賠償金を要求できなかったことについて、実父に「軟弱ナル元老会議ノ結果」と非難している。
また、「安達は、国際連盟の日本代表になる直前、パリ講和会議におけるウィルソン米大統領の掲げる理想について『驕り高ぶっていないか』というニュアンスの見方を示していました。しかし、10年後の書簡では、『国際連盟がいかに日本にとって大事か』ということを訴えています。それは、安達が国際連盟において様々な実務に携わった者として、経験に裏打ちされた実感だったはずです」(丸山氏)
国際連盟の理念や国際協調の重要性を誰よりも理解していた安達であったが、満州事変への評価は決して一面的ではなかった。 安達は当時の首相・斎藤実に対し、外交官としては「満州における日本の権益は守られるべき」と伝える一方、三牧氏も指摘するように、常設国際司法裁判所(PCIJ)の判事としては「仮に国際裁判となれば、日本の立場はきわめて危うい」と冷静に指摘していた。
安達にとって、日本が国際連盟脱退を通告した事実は、どれほど苛烈な現実であったかは、想像に難くない。安達はその後、不眠症に悩まされて体調を崩し、34年12月、心臓病のため亡くなった。享年65だった。
安達の死後、妻の鏡子は全資産を寄付して安達峰一郎記念館を設立、その後、公益財団法人安達峰一郎記念財団として受け継がれている。国際秩序が揺らぐ今だからこそ、一人でも多くの日本人が安達の生き方や思想に触れ、学びを得てほしいと強く願う。
