前回「〈豊臣から天下奪った家康のマネー術〉実はカギを握った朱印船貿易」で書いたように、家康が天下を取ってもなお大坂城の豊臣家は健在で、あいかわらず西国大名たちは豊臣家にも従ってその指図を仰ぐ例すらあった。
その存在感の源泉は、まず何といっても秀吉が秀頼に遺した莫大な金銀だ。かつて大友宗麟が「金銀の蔵、数を尽くし」(書状)と驚嘆した大坂城の無数の金蔵には、のち夏の陣で城が燃え落ちた後でさえ金2万8060枚・銀2万4000枚が残っていたという(『駿府記』)。現代の価値で数百~1000億円にものぼると思われる巨額だが、これはあくまでも秀頼が関ヶ原の戦い頃からはじめた各地の寺社修築(100件以上という)と、大坂冬・夏の陣でおびただしい金銀を消費した後のものなのだから恐れ入る。
金策を図る家康
対する家康の方といえば、あまりめぐり合わせが良くない。慶長12年(1607年)7月に彼の本拠である駿府城の本丸が完成したのも束の間、半年も経たない12月に火事を出して丸焼けとなってしまい、家臣の屋敷に仮住まいして年を越す羽目となっている。幕府の金山奉行・大久保長安が30万両(600億円)を寄附したという駿府城天守も煙と消えた。
家康の側室たちは気の毒なことに、火事で大判金300枚~500枚、お亀の方(徳川義直の母)らは1500枚を大混乱の中で略奪されてしまっている。6億円、10億円、30億円とすさまじい額の黄金がかっぱらわれた訳だ。
ただ、そのお金は12年前の文禄4年(1595年)に関白・豊臣秀次が叔父の秀吉に粛清されたときにその正室が「身分不相応の金銀を方々に投資した」ことが罪状のひとつに挙げられているように、当時は身分の高い女性も金貸しなどに投資して利ざやを稼いでいたようだ。家康の女房衆の大金も投資にいそしんで儲けた財産だったと思われる。
ただ、家康は転んでもタダでは起きなかった。翌年に天守と御殿の再建が済むとさっそく移り住んで西国大名たちからの転居祝いを受け付け始めたのだが、これが傑作だ。いちはやくお祝いを届けた大名衆は銀100枚~200枚にそれなりの添え物を加えた程度だったものが、遅れた大名たちは銀300~500枚に高価な添え物を合わせて献上したのだ。
後発の大名が先行の大名に問い合わせた? いや、そんな情報を提供してそれを超える金額を献上されては先発の大名の立場は無い。これは、家康の側近衆が故意に献上金の相場を後発大名に漏らしたと考えるべきだ。
「人は見栄と競争心理、保身のために他より金をかけようとするものだわ」
家康は集団心理を利用して、自分への献上金をつり上げたのだ。ちなみに銀100枚は2000万円、500枚で1億円と換算しておく。西国大名の総数を100とすれば100億円近くが再建費用の穴埋めに回されたものと思われる。