2024年12月22日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年11月5日

「返す返す秀より事たのみ申候、五人のしゆたのみ申候、いさい五人の物に申わたし候、なごりおしく候、 以上」(かえすがえす秀頼の事、頼み申し候。五人の衆、頼み申し候、委細は五人の者に申し渡し候名残り惜しく候。 以上)

 幼い息子の秀頼のことをよろしく頼むという、五大老宛ての何とも心細げな遺言を残して秀吉が伏見城で病没したのは、「文禄の役」(第1次朝鮮出兵)から5年後の「慶長の役」(第2次朝鮮出兵)が始まった翌年の1598(慶長3)年8月18日の午前2時頃だった。

 明智光秀の「本能寺の変」で横死した信長の仇を、秀吉が「山崎の戦い」で討ち、一躍天下人に躍り出てから、16年後のことである。

秀吉の死後、家康による政務から関ヶ原の戦いへと進んだ(gyro/gettyimages)

 秀吉が発病したのは5月頃なので、闘病3ヵ月で力尽きたことになる。享年62歳。遺言書に「秀より」とある秀吉の遺児秀頼は6歳で、家康は57歳だった。

 「五人のしゆ」の「しゆ」は「衆」で、家康を筆頭とする「5大老のメンバー」を意味し、長老格の前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人を指す。

 「五人の物」の「物」は「者」で、石田三成を筆頭とする「五奉行のメンバー」を意味し、三成以下、前田玄以、浅野長政、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家を指す。

 前記の上杉景勝は、小早川隆景の死去(1597〈慶長2〉年)に伴って後任となった大老だが、5奉行筆頭の三成と結託して家康を倒そうと謀ったのが引き金となって、天下分け目の「関ケ原の戦い」が勃発するのは、秀吉が死んで丸2年が過ぎた9月15日のことだ。

 秀吉は、息を引き取る13日前の8月5日に、家康と利家を伏見城の枕元に呼んで、上記の「遺言書」を手渡し、「秀頼をよろしく頼む」と懇願したが、そのとき秀吉は、ずっと頭を離れなかった「朝鮮出兵の引き揚げ」についても依頼した。

 そして秀吉は、五大老、五奉行に誓紙を交換することを求めたのだった。

明の征服は信長・秀吉共通の夢か

 1592(文禄元)年と1597(慶長2)年の二度にわたって行われた朝鮮出兵は、誰の目にも〝正気の沙汰ではない〟と映ったが、秀吉にいわせると正気も正気、信長のお墨付きをもらったもの、言い方を変えると「信長の遺志」を継いだものだった。

 秀吉が信長に朝鮮進出の夢を語ったのは、ふた昔も前の1577(天正5)年のこと。信長から中国征伐の大将に任ぜられ、播磨国と朱傘を与えられたときである。

 その褒賞がよほどうれしかったと見え、秀吉は「中国の次は九州を征伐し、大船を建造して朝鮮に攻め入りましょう。私に何か賞を与えたいと思われるときには朝鮮をいただきますので、その旨を記した御教書(みきょうしょ)を賜りたい」などと大言壮語し、信長の笑いを誘っていたのだ。


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