「明国を征服した暁には、皇帝の姫を日本の皇后に迎えたい」と語る秀吉を周囲の者は「実現不可能な大ぼらを吹いている」とあざ笑ったが、イエズス会(耶蘇会)の宣教師ルイス・フロイスが本国に送った「日本年報」にも、「信長は、国内を平定した後には、大艦隊を繰り出して中国を征服し、子弟に分配する野心を持っていた」と書いてあり、必ずしも荒唐無稽な夢ではなかったのだが、そんな壮大な夢も秀吉の死とともに消失してしまった。
しかし、両度の朝鮮出兵は、秀吉の重臣らに遺恨を残した。加藤清正、福島正則らの「武将派」と三成らの「文吏派」との対立の種をまき、豊臣政権を分裂させたのである。
だが、家康にとっては、秀吉の死は天下取りの絶好の機会到来だった。6歳で人質に取られて以来、家康の堪忍袋はどんどん膨らみ続けてきたが、もはや限界に近づいていた。
前田利家の死が招いた連続事件
秀吉の死後、家康は伏見城で政務を執り行い、前田利家は秀頼を後見補佐するために大坂城に入った。両者の役割分担は、秀吉の遺言に従ったのである。
前田利家が死ぬのは、秀吉の死から7ヵ月後の1599(慶長4)年閏3月3日のことだ。利家は家康より4つ年長なので、それなりに気をつかってきたが、今後はそのような気づかいは無用となった。
そう思ったのは家康だけではなかった。〝豊臣七将〟と呼ばれていた武将派が、朝鮮出兵時に三成から受けた遺恨を爆発させ、襲撃しようとする事件が起きたのは、その翌日の3月4日という生々しさだった。
七将とは、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、蜂須賀家政で、その企てを事前に察知した三成が命からがら逃げ込んだ先は家康の伏見屋敷とされてきたが、そうではなく、三成が逃げ込んだのは伏見城内にある自身の屋敷だったとする説を唱える学者もいる。いずれにせよ、いきり立つ七将をなだめたり、三成は居城の佐和山城へ送り届けさせ、閉居処分としたのは家康だった。
〝アンチ家康派〟にも不穏な動きが生じた。会津の上杉景勝が城を修理したり、武器を買い入れるなど、「逆心」を疑われるような不審な動きを見せたのは、そんなときだった。
家康は、上洛して説明するようにと通達したが、景勝は拒んだ。その反応を見て、家康は、「三成と結んで謀反に走ろうとしている」と読み、「上杉征伐」を決断、6万近い兵を率いて大坂から関東へと向かったのである。ただし、大義名分は「太閤秀吉が薨去(こうきょ)後、上洛せず、豊臣家をないがしろにしている」ということだった。
「わしが上杉征伐に向かうのを見て、三成は挙兵するに違いない。景勝と三成とで、わしを挟み討ちにしようする魂胆であろう」と家康は確信した。その読みは的中。家康が下野国小山に着いたとき、「三成、挙兵!」の報に接するのである。