戦う前から負けていた西軍
関ヶ原の戦いは、まれにみる〝奇妙な合戦〟だった。
家康の東軍は7万5000、三成の西軍は8万4000で、軍勢は西軍がまさっていたが、勝敗はその逆になるだろうことが戦前に予想できたからである。
奇妙な合戦と評する理由は、ほかにもある。
まずは、西軍の総大将は三成ではなく、毛利輝元だった点である。三成は戦争経験が乏しく人望もなかったから総大将には不向きで、毛利輝元を引っ張り出したのである。
だが、その輝元の動きも尋常ではなかった。単なる〝お飾り〟に過ぎず、合戦が始まっても戦場へ討って出ることはなかった。毛利軍は東軍西軍のどちらにもつかなかったのである。そのような奇妙な行動に走ったのは、東軍についた毛利家の分家の吉川広家に説得されたからだった。
同じく毛利一族の小早川秀秋も、叔母の北政所(きたのまんどころ)から家康につくするようにと繰り返しいわれており、家康と意を通じて東軍に味方する約束を事前に交わしていた。秀秋の父(杉原〈木下〉家定)が北政所の兄にあたる関係なのだ。
北政所は、関ヶ原の戦いの勝敗を大きく左右した人物として強調しなければならない存在だった。
北政所は、秀吉の糟糠(そうこう)の妻として秀吉にずっと尽してきたが、子ができなかったのが唯一の不幸だった。賢明な彼女がそのことを口にすることはなかったものの、心の奥底では秀頼を産んで権力を握った側室の淀殿(茶々)への複雑な思いがあり、そういう〝アンチ淀殿〟的感情が自分に親切にしてくれる家康を支持する気持ちにつながっていた。
開戦したときの状況はどんなだったか。拙著『家康の決断』から一部を抜粋する。
「合戦当日は、敵か味方か判別できないくらいの濃霧が立ち込めるという悪条件で、双方とも暗黙のうちに霧が晴れるのを待ってるかのようだった。霧が晴れたのは午前10時頃だったが、戦いはすでに始まっていた。
戦いの火ぶたは、思わぬ形で午前7時過ぎに切って落とされたのである。功を急いた井伊直政が抜け駆けし、西軍の宇喜多秀家の陣営に鉄砲を撃ちかけたのだ。宇喜多隊が応戦し、これを見た藤堂高虎らが大谷吉継を攻撃して本格的な戦いに発展、一進一退の戦況が続いた。
膠着状態が破れたのは、午前11時頃。松尾山に陣取った小早川秀秋が寝返ったのである。
小早川秀秋は、三成が上げる狼煙(のろし)を合図に東軍を側面攻撃する手はずになっていたが、家康や北政所の説得で戦前に東軍に内応していた。しかし、小心で優柔不断な性格の秀秋は、合戦当日になると日和見(ひよりみ)を決め込み、、三成が出撃の合図の狼煙を上げても動こうとせず、かといって西軍を攻撃するでもなかった。
業を煮やした家康は、秀秋の陣に鉄砲を撃ち込ませ、それでようやく秀秋は、山を下って側面から西軍の大谷吉継の陣地になだれ込んだ。それを見て、脇坂安治、朽木元網、赤座直保、小川祐忠の4隊4400の軍勢も続いた。そこから一挙に東軍有利へと傾き、午後2時頃には勝敗が決し、午後4時頃には戦争が終わった。全国各地で起きていた戦いも、関が原の結果が伝わると潮が引くように終結へと向かい、家康の天下統一が成ったのである」
脇坂安治、朽木元網らを西軍から東軍に寝返らせる工作をしたのは、藤堂高虎だった。
最後に書いておきたいのは、家康自身の筆まめぶりについてだ。関ケ原の戦いの直前の3ヵ月間に家康が書いた書状は、7月34通、8月93通、9月34通となっている。そういう手堅い努力の積み重ねが関ヶ原の戦いを圧倒的勝利に導いたのである。