「ある日突然、上下関係が逆転したらどうすればいいのか?」
今日のビジネスシーンにも通じる命題を投げかけたのが、「本能寺の変」の前と後の徳川家康と豊臣秀吉の関係である。
説明するまでもなく、秀吉の主君は織田信長で、本能寺の変の前も後も家康の直属の部下ではないが、家康は信長とは20年来の盟友なので、どちらが格上かといえば、家康の方が圧倒的に上だ。
本能寺の変が起ったのは1582(天正10)年6月2日だが、そのとき2人はどこでどうしていたのか。年齢は秀吉が5歳上で、秀吉は46歳、家康は41歳である。
家康は、信長の招きを受けて安土城を訪れた後、京都や奈良を案内してもらったのに続いて、先進的な町である堺を見物し、その日程を終えて三河へ戻る準備にかかっていた。
一方、秀吉は、中国攻略に派遣され、備中(びっちゅう)高松城を水攻めの最中だったが、そこ援軍として毛利軍が大挙して押し寄せてきたので、信長に援軍を要請、信長自身が出馬することなっていた。
本能寺の変を起こした張本人の明智光秀は、安土城での家康接待で失態を演じて降格を言い渡された後、「先遣隊として山陰の丹波攻略に出陣せよ」と命じられ、そこに向かうと見せかけて途中で方向転換し、本能寺の信長を襲ったのである。
家康と秀吉の危機管理の違い
光秀は、「秀吉は動けないから警戒するに及ばず」「本能寺の信長を殺したら、少人数の家臣と堺見物をしている家康を殺す」という計画だったが、その読みは見事に覆された。
秀吉は、光秀が毛利軍の総大将毛利輝元(元就の孫)に送ってよこした「挟み撃ちにして秀吉を倒そう」と呼びかけた密書を持参した使者を偶然にも捕まえたことで、信長が死んだことを知る。
そこから先の秀吉の動きは、光秀の裏をかく驚天動地としかいえないものだった。
「亡き主君信長公の仇討ちに出陣じゃ。金が欲しくば、不眠不休も何のその、心臓が破裂するほどの勢いで引き返すのだ。信長公から受けた恩に報いるのは今ぞ」
秀吉は、信長の死を隠して毛利軍と大急ぎで和議を結ぶと、「中国大返し」と呼ばれる電光石火の早業で居城の姫路城へと引き返し、軍備を整えて山崎で明智光秀と一線を交える。
秀吉は凡庸な武将ではなく、〝智謀の人〟。人を動かす術を熟知していた。家臣が共感し、命がけになれる「大義名分」をぶちあげて、家臣らの士気をあおりにあおった。