2024年2月29日(木)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年8月13日

 光秀が謀反という「主君への不義」を犯した〝後ろ暗さ〟を伴ったのに対して、秀吉は「主君の仇討ち」という名の「大義」を掲げての〝正義の戦い〟と位置付けたから、両軍の士気が決定的に違っていた。秀吉が勝って当然だったのだ。

 これが「山崎の戦い」で、本能寺の変から11日後のことである。

 このように秀吉が「攻めの危機管理」に徹したのに対し、家康は「守りの危機管理」に終始せざるを得ず、命からがら三河まで逃げ帰るのが精一杯だった。

 それでも、逃走路に難所続きの「伊賀越え」を選んだ決断は流石だったが、仇討ちという本懐を遂げた秀吉は、それまで「信長の後継者は、固い同盟で結ばれていた家康で決まり」と思われていた天下取りの序列を、この手柄で一気にひっくり返したのだ。

 秀吉は、さらにダメを押す。本能寺の変から4ヵ月後、秀吉は、喪主として信長の葬儀を京都の大徳寺で大々的に執り行い、「後継者は自分で、名実ともに自分が天下人なのだ」と世間に巧みに強烈にアピールするのだ。家康は、ひたすら耐え忍ぶしかなかった。

「桶狭間の戦い」ではニアミス

 家康と秀吉の関係について、少し遡って触れておこう。

 2人が敵味方として対峙した最初は、信長が今川義元を倒して満天下を驚かした1560(永禄3)年5月の「桶狭間の戦い」だった。といっても、同じ戦場で戦ったのではなく、ニアミスしただけで、互いの顔を見てはいない。

 家康は、8歳から今川義元の人質生活を強いられ、17歳で初陣(三河の寺部城攻め)を飾り、その2年後には、19歳で桶狭間の戦いの前哨戦「大高城の兵糧入れ」の先陣を命じられて信長陣営と戦って大殊勲を挙げた若武者だった。

 大高城は、義元の家臣が城主だったが、信長勢に包囲されて兵糧不足に陥り窮地に立たされ、それを救ったのが家康だったのだ。

 一方、秀吉は、信長に付き従って桶狭間の戦いに出陣した。24歳だったが、それが初陣で手柄どころではなかった。百姓の出という出自が災いし、信長の草履取りに召し抱えられるのが遅かったせいである。

 今川義元は、大軍を率いて家康が守っている大高城へ向かって行軍していた。そして桶狭間の手前の「田楽(でんがく)狭間」というところで休息しているところを、信長に急襲されて首を取られた。これが世にいう「桶狭間の戦い」で、秀吉はこの戦いに〝下っぱ〟として加わっていたのである。

 秀吉が武将として名を挙げるのは遅く、34歳。近江小谷(おだに)城に拠る朝倉義景との「姉川の戦い」(1570〈元亀元〉年)の前哨戦となった「金ヶ崎の退(の)き口(ぐち)」と呼ばれる戦いにおいてである。

 信長は、朝倉義景を義弟(妹お市の方の夫)浅井長政と挟み撃ちにすることで簡単に倒すつもりでいたが、長政が裏切り、逆に前後を挟み討ちにされて危機に陥り、逃走するが、そのとき秀吉は殿軍(しんがり)となって信長を守る手柄を立てたのだ。

 家康は、その戦いで先陣を願い出、信長の逃走を助ける獅子奮迅の大活躍をし、戦後、信長から感謝されている。家康29歳である。


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