2024年12月22日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年7月23日

 「本能寺の変は謎が多い」とされている。確かに「明智光秀の動機」は謎めいている。

「本能寺焼討之図」明治時代、楊斎延一画(写真:akg-images/アフロ)

 織田信長の執拗なイジメによる「怨恨説」、天下取りを狙った「野望説」、信長に傀儡将軍にされた足利義昭の「陰謀説」、天皇が陰で操ったとする「黒幕説」、豊臣秀吉台頭からくる「焦燥説」、なかには「家康陰謀説」なるものもあるが、今に至るも特定されておらず、謎とされている。果たしてそうか。

虎狼・信長に咬まれる前に殺した

 筆者は〝主因・怨恨説〟で、注目するのは「武士道」と「秀吉の信長評」の2点だ。

 「明智め、上様に逆心を構へ、京都に御座候を夜討同前(ママ)にいたし御腹をめさせ候」

 秀吉の書簡の一節だが、「逆心」は「謀叛」「下剋上」と同義で、主君に対する家臣の「忠義」を重んじる「武士道」では「道に非〈あら〉ず」(非道)として是認されない行為だった。

 だが光秀は、それを百も承知で逆心に及んだ。そうせざるを得ない「よほどの事情」があったからだ。怨恨が度重なってピークに達し、堪忍袋の緒が切れた。筆者はそう考える。

 怨念を生んだ原因は1つとは限らず、大中小いくつもあったとするのが自然だ。大怨恨には、丹波国の八上(やがみ)城を光秀が包囲したときの出来事がある。

 降伏すれば城主(波多野秀治)の命は助けると光秀は約束したが、信長は許さず、城主を殺させたことから波多野の家臣らが「違約だ」と激怒。人質として城内に囚われていた光秀の母を磔(はりつけ)にしたのだ。小さな原因には、満座のなかで「きんか頭(禿げ頭)」と愚弄された類いなど、数多い。

 もう1点の「秀吉の信長評」は、『名将言行録』(巻之二十八)にある。現代語訳すると、

 「信長公は、勇将ではあるが、良将ではない。剛をもって柔に勝つことは知っておられたが、柔が剛を制することはご存知ではなかった。ひとたび敵対した者への怒りはいつまでも解けず、その根をすべて断ち、枝葉はすべて枯らそうとされた。だから、降伏した者も誅殺し、敵討ちが絶えることはなかった。そうしたのは人としての器量が狭小だったからだ。そういう人物は、敬遠されこそすれ、愛されることはない。喩えていうなら、虎狼のようなもの。人々は、咬まれることを怖れるあまり、虎狼を殺すことでその害から逃れようとする。明智に謀叛を起こさせたのは、そういうことなのである」。

 秀吉は、咬まれることを巧みにかわす術に長けていたから怨念にまで発展しなかったが、神経質な小心者光秀は、「虎狼を殺すしかない」と思い詰めたのだった。虎狼に咬まれ続けて人生を終えるか。虎狼を殺して咬まれない人生を送るか。あなたはどちらを選ぶ?


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