家康への接待役で〝失敗〟
本能寺の変が勃発したのは1582(天正10)年6月2日未明だが、それを暗示するかのような出来事が事前に起きていた。耶蘇会(やそかい・イエズス会)の宣教師ルイス・フロイスがローマの本部に送った報告書に、そう書いてある。
「五月十四日(天正十年四月二十二日)の夜九時に、彗星が現はれて、甚だ長き尾を曳(ひ)き、数日間続ひて、諸人皆大いに驚いた(中略)其後(そのご)、数日を経て、正午頃安土山(あずちやま)に彗星の如きものが天より落ちた。カザ(南蛮寺)の者が七、八人之(これ)を見て驚き、何か恐しい事が起る前兆と考えた。併(しか)し日本人は此(こ)の不思議の原因に付いて少しも知らず、何事であるかも知らず又考へなかった」(1943〈昭和18〉年刊『耶蘇会の日本年報第一輯(しゅう)』村上直次郎訳)
そのとき家康はどうしていたか。「武田を滅ぼした軍功」によって信長から駿河を与えられており、その謝礼のために進物を携えて5月8日に岡崎を出発し、5月15日に安土城の信長を訪れていた。彗星出現の翌日である。
家康が持参した金3000両と鎧300を進物として差し出すと、信長はその場で1000両を返して、こう言った。
「一緒に奈良・京都見物に参ろう。わしが案内する。ただし、わしは、収集した茶器を関白や太政大臣をはじめとする大勢の公家らに披露する会を6月1日に本能寺で開くので、途中から別行動を取らねばならぬが、別の案内人をつけるから、貴公は心ゆくまで堺見物を満喫するがよかろう。この金はそのときに使われよ」
そして信長は、家康が驚くほど饗応した。そのとき「接待役」を命じられていたのが光秀で、半月がかりで準備してきたが、信長は「生魚が臭気を放っている。大切な客人に腐った魚を食べさせる気か」と膳を蹴り、その場で接待役を解いた。
のみならず、「従来の所領(丹波・近江志賀郡)は没収し、代替地を与えるから好きなだけ切り取れ」と信長は告げたが、代替地は〝絵にかいた餅〟。戦って奪い取らなければならない毛利領(出雲・石見両国)だったと『明智軍記』は記す。
「信長への殺意」が生じたのは、このときだったろう。秀吉ならヘラヘラ笑って受け流せたが、光秀にはできなかった。
彗星出現から3日後、家康が安土に来て2日目の5月17日のこと。備中国(びっちゅうのくに)の高松城を包囲し、水攻めにしている秀吉から使いが来た。
「毛利勢(毛利輝元、吉川元春、小早川隆景)3万の大軍が後詰(ごづめ)として参戦してきたので、至急、援軍をお願いしたい」
その危機を「一気に毛利を叩きつぶす好機」と考えた信長は、「わしが行こう。お前たちは先に行け」といって、光秀を高山右近、池田恒興、中川清秀らとともに先鋒に指名した。
光秀は、その日のうちに坂本城へ戻って準備を整え、6月1日に丹波亀山城から1万3000の軍勢を率いて出陣。高松城がある西を目指したが、日が変わって桂川を渡ったあたりで進路を東へ方向転換し、「敵は本能寺にあり!」と号令を発するのだ。