家康はといえば、秀吉が光秀に勝利した時点で〝ポスト信長〟の目は消えたが、もし京都に留まっていたら、二条城で討ち死にした信忠(信長の嫡男)のようになっていただろう。家康と信長は、軍事同盟で固く結ばれた「無二の盟友」だったから、光秀から「信長とともに葬り去る標的」として狙われ、命からがら逃走した。これが「伊賀越え」である。
信長殺害後のビジョンと人徳を欠いた光秀
NHK大河ドラマ「どうする家康」の姉川の戦いを描いた「姉川でどうする」(第15回、4月23日放送)では、家康に家臣が「今なら信長を討てますが、問題はその後。天下を動かせるかどうか」という場面があったが、天下云々は光秀にもいえた。
宣教師フロイスは先の報告書で、光秀は「努力と叡智で信長の信用を得た」が、次のようであったと〝芳しくない評〟を並べ立てている。
「諸人には喜ばれず、叛逆を好み、残虐なる処罰を行ひ、戦争に巧妙で策略に富み、心(こころ)勇猛で築城術に達してゐた。(中略)併(しか)し、明智は恐るべき人で、更に進んで日本王國の主となるを得ざるか試みんと欲した」(前出『耶蘇会の日本年報』)
このとおりだったとすれば、光秀には国を治める「器量」も「人望」も「戦略」も備わっていなかったことになるが、実際、6月13日の「山崎の戦い」を前にした光秀が縁戚の細川藤孝(幽斎)・忠興親子や筒井順慶(「日和見」の代名詞「洞ヶ峠」で知られる信長の武将)から参戦を断られている。そして光秀は、秀吉に惨敗し、逃走途中で農民の「落ち武者狩り」に遭い、竹槍で刺されて命を落とすという悲惨な末路を迎えた。
秀吉が不可能を可能にした秘訣は3つあり、今日にも通じるヒントではないか。
①「殿の弔い合戦」という大義名分を声高に叫んで、兵士の士気を鼓舞した。
②「金をはずむから不眠不休で急げ」と発破をかけ、やる気にさせた。
③兵士が高速移動できるように褌一枚にさせ、鎧兜や武具は船で別送する「効率重視の奇想天外な手法」を考案した。