用意周到の光秀を破った秀吉の〝神業〟
光秀が決意を固めるのに要した日数は16日間だった。坂本城に戻った5月17日から亀山城を出発する6月1日までである。
したがって、5月28日に愛宕山の神社で催された「連歌会」に光秀が臨んだときにはすでに信長を討つ決意をしており、その心中を次の発句に込めたことがわかる。
時は今あめが下知る五月哉
深く考えずに解釈すれば「季節は今、雨が降る五月だと知ったよ」という意味になるが、複数の掛詞(かけことば)が仕込まれており、「時」は「土岐(とき)氏」の末裔光秀に通じ、「あめ」は「雨」と「天」(天下の意)、「知る」は「治(し)る」で、〝決意表明〟であることは明々白々。その5日後に本能寺の変は起こるのだ。
信長が本能寺へ向かうのは、光秀の連歌会の翌日の5月29日だったが、茶器を見せびらかすのが目的だから随伴者は少数(護衛の家臣150人と小姓30人の計約180人)に絞った。これでは1万3000もの光秀の大軍に包囲されたら、ひとたまりもない。この状況は、光秀から見れば「千載一遇の絶好機」でしかなく、まさに「時は今」なのである。
光秀は、亀山城を出発する前夜、心を許した重臣4人を集めて「信長を討つ決意」を打ち明け、血の誓いをした。血判状である。
光秀が警戒したのは信長の息子や信長を信奉している重臣の動向だったが、彼らは京都から離れた場所にいた。信長の三男神戸(かんべ)信孝は四国征伐のために大阪で待機中。次男北畠信雄(のぶかつ)は伊勢。宿老の滝川一益は上野国の厩橋(うまやばし)で北条氏と戦い、柴田勝家と佐々成政は越中国の魚津で上杉氏と戦っていて、動くに動けない。こうした事情も光秀を逆心へと駆り立てる大きな要因となった。
そういったことはすべて計算済みだった光秀だったが、〝想定外の事態〟が発生した。京都から遠く離れた備中で毛利の大軍と対峙していたはずの秀吉が、こともあろうに、信長の死を知らない毛利方と和睦し、備中から居城の姫路城までの27里(約108キロメートル)を1昼夜から2日という〝神業的速度〟で引き返し、6月7日夕方に姫路城に帰着、翌日には光秀と戦うために山崎へと出陣し、勝利するのだ。世にいう「中国大返し」である。
秀吉が本能寺の変を知るのは事件の翌日夜だが、これが偶然ときたから「幸運の女神がついていた」としかいえない。光秀が本能寺から毛利輝元に宛てた密書を携えた者が水攻めのせいで道に迷って捕まり、密書が秀吉の手に渡って信長の死を知ったのだから。