2024年12月5日(木)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年1月15日

 千利休が羽柴秀吉による大徳寺での織田信長葬儀をプロデュースしたことは、もうひとつの側面からも想像できる。

京都・晴明神社の千利休屋敷阯碑(筆者撮影、以下同)

 清洲会議で秀吉は近江長浜三郡を手放し山城・河内を得た。それに養子の秀勝が丹波の国主となっている。

 元から領有していた播磨を含め、当時の秀吉領は合わせて約100万石足らずと推定すると(「慶長三年地検目録」から)、仮に大徳寺葬儀の前に全ての領地の年貢を徴収して精米して現金化できていたとしても、直轄地からの5万石の内3万石が蔵米取りの家来たちへ支給される場合、秀吉の手元に残るのは2万石の9億円程度がせいぜいだろう。前回「秀吉が信長葬儀で権力手中へ 裏で手を引く千利休」で紹介した大徳寺葬儀のための10億円以上のマネーには届かない。

 そのうえこの9億円はこれから想定される柴田勝家らとの戦いの軍資金ともなるのだから、どうしたって葬儀代など出せない計算だ。1年分の収入をすべてお葬式代に投入する人なんていないのである。

 そこで存在感を表すのが、千利休をはじめとする堺衆、という訳。堺衆の資金力が秀吉を強力にバックアップしたと考えるのが自然だろう。

 利休は大徳寺での葬儀が成功した1年後、竣工した大坂城での最初の茶会に堺衆としては宗及とともにふたりだけ出席し、秀吉茶頭のトップツーの座をゲットしている。

葬儀プロデュースの見返りとは

 その前月には博多の豪商・嶋井宗室に宛てて「何に(て)も御用の事候はば承るべく候」と申し入れているから、秀吉政権の取次役としての働きも始まっていたのだろう。

 とはいっても、堺衆としてもただいたずらにサービスで秀吉に資金を提供し、多忙の合間を縫って奉仕する訳では無い。そこには必ずマネタイズ(収益化)の目処があるのだ。

 千利休と堺衆の場合、それは日明貿易の復活にあったことは間違いない。巨大な利益を生んでいた公式の対中国貿易は33年前を最後に行われておらず、以降私貿易(倭寇)がもっぱらとなっている。堺衆もそれに参加していた形だが、できれば公式貿易を復活させて堺衆で貿易を独占し、あわよくば南蛮貿易も確実に一手に収めたい。

 「とにかく明や南蛮さんとの取り引きはこれからますます儲かりますからな。なにせ鉄砲は国産化できたものの火薬や大砲は輸入に頼るしか無い訳ですさかい」

 南蛮貿易というとポルトガルなどと日本の往来貿易の様なイメージで考えられがちだが、実際には東南アジアのマラッカが拠点となって中国を経由する形となって日本との航路を運営しており、私的日明貿易と一体化した取り引き形態だったのだ。

 ところが、南蛮貿易についてはイエズス会宣教師が布教費用を稼ぎ出すために関与しており、主導権をガッチリと握っている。

 ではそのイエズス会宣教師が動かした貿易マネーはというと……。いやいや、そのあたりは別の機会に回すとしよう。もったいないから(笑)。


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