米国がイスラエルとともにイランを攻撃し、イスラエルによる攻撃の対象は親イラン武装組織ヒズボラの拠点があるとされるレバノン南部にまで拡大した。なぜ米国が攻撃に加わったのか、具体的な計画や準備がどれだけなされていたのか、どのような形での終結が想定されているのかなど、不明な点があまりにも多い。
今日の世界政治を考える上で中東地域が重要であるのは間違いない。米国は冷戦期以降、石油資源の供給、イスラエルの安全保障、脅威となる勢力の封じ込めを中核として中東戦略を組み立ててきた。
米国が中東地域で関わった戦争といえば、1990~91年の湾岸戦争と2003年からのイラク戦争を思い出す人が多いだろう。これに対し、今回の戦争に関しては、少なくともイランが直接的な攻撃を他国へ行っているわけではなく、米国に対する具体的な攻撃が計画されているわけではなさそうだ。大統領がイスラエルにそそのかされて戦争に着手したのではないかとか、いわゆるエプスタイン文書問題から目を背けるための戦争ではないかなどとの指摘までなされている。
今回の記事では、米国の中東戦略、対イラン戦略の中で今回の戦争がどのように位置付けられるか、またイランがなぜ妥協を拒否するのかを検討してみたい。
米国の中東戦略
米国の中東政策は、石油資源、イスラエルとの安全保障、敵対的勢力の打倒という問題との関連で策定されてきた。そして米国とイランの関わりは、1979年のイラン革命を機に大きく変化した。
第二次世界大戦以後、米国はイランのパフラヴィー朝との良好な関係を基礎として中東戦略を策定していた。60年代までは英国が中東地域で大きな影響力を維持していたために米国が深く関与する必要はないと考えられており、地域秩序の維持についてはイランとサウジアラビアという二つの同盟国へ基本的に委ねていた。
だが、79年にホメイニ師が中心となって革命を達成し、パフラヴィー朝が崩壊したことが状況を変えた。米国に友好的だった国家が反米強硬派に乗っ取られたのである。そして暴徒が「米国に死を」と叫びながら米国大使館になだれ込み、52人の大使館員を444日にわたって人質に取ったのである。
当時のジミー・カーター政権は特殊部隊を派遣して人質救出作戦を実施したが、失敗に終わった。そして、80年から88年にかけて行われたイラン・イラク戦争の際に、米国はイラクに協力的な態度をとるようになった。
イランの認識によれば、91年の湾岸戦争の原因の一つは、米国がイラクに友好的な態度をとった結果としてイラクが増長したことにもあった。だがH・W・ブッシュ政権はイラクによるクウェート攻撃を是とせず多国籍軍を組織してイラクを攻撃し、米国が中東に軍事的なプレゼンスを維持するようになった。
H・W・ブッシュ政権の後を継いだビル・クリントン政権は、イランとイラクの双方に制裁を科して監視することを中核とする二重の封じ込め政策を採用し、サウジアラビア、バーレーン、カタール、クウェート、アラブ首長国連邦(UAE)に駐留させた米軍基地を活用した。イスラム教徒にとって神聖な土地であるアラビア半島に米軍を駐留させたことに強い不満を持つ人々は存在し、反米感情が醸成された。
