2026年5月10日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2026年5月10日

『雨に祟られた晩秋の南北ベトナム、中国国境の町からサイゴンへ』を休載し、3週間連続で、筆者がかつて駐在し、出張で何度も訪れたイランについて語って頂きます。

イランとの浅からぬ因縁

 筆者は60歳で定年退職してバックパッカーとして海外放浪三昧を始めるまで商社・メーカーにて一貫して海外の仕事に従事した。なかでも長く深く関わったのがイランと中国である。

 イランには1989年からテヘランに3年間駐在し、その後も1998年まで頻繁に長期出張を繰り返した。他方で中国は1984年に初めて北京に出張して以来数えきれないほど中国各地を出張し、退職直前の2年間は北京に駐在した。

 イランでの体験や見聞を踏まえて昨今のイラン情勢について思うところを記してみたい。そしてイランと中国と米国との関りについても言及したい。

テヘラン市内からエルブルズ山脈を望む。テヘラン市内の上水道はエル ブルズ山脈の雪解け水を使用している。この付近は山脈の麓に近い高級住宅地。山脈の 麓にはパーレビ王朝時代の王宮がある

「十年一日の如し」、何も変わらないイラン・イスラム共和国

 筆者が駐在員としてイランで生活を始めた1989年は、1979年のイスラム革命より10年経過しており、イラン・イラク戦争終結後の戦後復興の時期であった。1989年から1998年までの約10年間イランの人々の生活や暮らしぶりはほとんど変わらなかった。

 10年の期間で、経済は停滞し、大都市テヘランの古びた景観は代わり映えせず、政治体制は変わらず、テレビの放送内容も「十年一日の如し」であった。そしてニュース報道で見る限り現在のテヘランの景観は未だに37年前とさほど変わらないようだ。

 今から37年前と比較して中国、東南アジア、ドバイなどは別の国かと見違えるほど発展し変貌したことと比べれば、イランの停滞ぶりは奇異である。現在の視点から停滞の原因を分析すればイスラム共和国体制そのものであろう。

「男女七歳にして席を同じうせず」 

 1979年イスラム革命以前のテヘランは「中東のパリ」と呼ばれ、ペルシア美人が欧米の最新ファッションで歩いていたと1989年の赴任前に聞いていた。赴任して先ず目に付いたのは通りを歩く女性たち全員が黒いヘジャブ(≒スカーフ)や黒いチャドル(≒マント)と呼ばれる服装をして頭髪や顔を隠して体全体を覆っていたことだ。

 そして公の場所では男女別々に隔離されていた。バスは真ん中で仕切られ前方が女性、後方が男性。列車は男性車両と家族車両に分かれ女性は家族車両へ。レストランも男性席と家族席に分かれ女性は家族席に案内される。学校は小学校から男女別クラス。病院や役所等の待合室も男性用と家族用と分けられていた。

 イランではパーレビ王朝の国王モハマンド・レザー・シャーにより第二次大戦後から1979年のイスラム革命まで30年間も近代化・世俗化政策が推進され都市部を中心部に自由で開放的欧米的生活様式が広がっていた。このような西欧文明に慣れ親しんだ人々にとり厳格なイスラム戒律日常生活を強制されるイスラム共和国体制は耐え難いものであったようだ。テヘランの中流階層や知識人と話すと必ず批判や不満の声を聞いた。

女性は自転車・バイクに乗れない、スキー場では男女別コース

カスピ海の沿岸の鄙びた町のマクドナルドの看板が出ているハンバーガ ー・ショップ。イラン革命で米国マクドナルドはイランから撤退してイラン人の経営者 に変わったが看板だけは残っている。革命前には米国系ファーストフード・チェーンが 人気であった。革命後もハンバーガーやピザは人気であった

 イスラム教には女性の社会活動を制限する規範が多い。イスラム革命後にはイランの女性全員がそうした規範を強制されることになった。女性が自転車・バイクに乗ることは禁止された。ちなみに車の運転は許されていた。

 スポーツをする時もイスラムの服装規定を守り男女別々だ。イランのスキー場では男女別にコースが分かれていた。男女のコースの境には小銃を携帯した宗教警察が立哨していた。そしてリフトやゴンドラが一本しかない場所では順番待ちの列を男女に分け、リフトやゴンドラも男子用と女子用を分けて交互に乗せていた。女性はスキーウエアの上に黒いヘジャブとマントのようなチャドルを着て顔や体型を隠すことが義務付けられていた。

カスピ海の女性用海水浴場は厳戒態勢

 初夏のある日、車で同僚と一緒にテヘランからエルブルズ山脈を越えてカスピ海に遊びに行った。波打ち際に長さ50メートルくらいで高さ7メートルくらいの黒い布で覆われた場所があった。周囲を5~6人の武装した宗教警察が警戒していた。

 古参駐在員の同僚によると女性専用海水浴場であり男が覗き見しないよう監視しているという。女性たちはやはりヘジャブで頭部を隠しマントのようなチャドルを被って海水に浸かるのだ。

出稼ぎイラン青年と結婚した日本人女性の悲劇

勤務していた駐在員事務所のプロジェクトチームの秘書。このうちの一人は後にオランダへ亡命した。

 筆者が駐在していた頃イラン人は日本へビザなしで入国できた。その結果10万人もの出稼ぎイラン青年が日本に在留していた。彼らの多くが違法就労で麻薬密売人になるものも少なくなかった。

 当時はイラン航空が成田~北京~テヘランを週2便運航していた。イラン直行便はこうしたイラン人でほぼ満席であった。テヘラン行きの便ではしばしば日本人女性とイラン青年のカップルを見かけた。彼らはイランで結婚するのだ。

 テヘランの日本大使館から聞いた話では、結婚した日本人女性が婚家を逃げ出して大使館に駆け込む事例が少なからずあった。日本に出稼ぎに来たイラン青年は概して貧しい地方出身者である。イスラム色の濃い地方では女性の一人歩きは許されない。婚家の家族と同居生活が普通であるが実質軟禁状態である。挙句にパスポートを取り上げられて日本に帰国もできず大使館に駆け込むというケースもあった。


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