2024年12月22日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年11月1日

 天王寺砦で茶湯三昧に耽った末に追放された佐久間信栄。前回「茶湯は武将を亡ぼす 佐久間信栄の栄光と挫折」で紹介したように、9億円近い年収のかな~り大部分に近い額をお茶事に注ぎ込んだと考えられるのだが、その結果「数寄(茶湯)に莫大の金銀を費やし」と信長に罵倒され(『甫庵信長記』)たあげくの父・信盛ともどもの転落劇だった。

佐久間信栄が葬られたという塔頭・高東院があった大徳寺(法堂)(筆者撮影、以下同)

 しかし、彼の名誉のために少し弁解もしておこう。まず、彼らの責任はその部下にもあるという件。佐久間父子の与力には水野守隆という人物がいた。

 名字から分かる方もいらっしゃるだろうが天正3年(1575年)に殺された水野信元の一族で、尾張常滑城主。信元領を受け継いだ信盛の下で働いていたのだが、この守隆が信栄にもひけをとらないほど茶湯LOVERだったのだ。

 堺・天王寺屋の津田宗及の茶会に足繁く通い、自分でも宗及や佐久間父子を客として茶会を開き、茶器コレクターとしても一流。

 信長は佐久間父子に「水野信元の遺臣を雇わず追い出してしまい、与力に頼って家来を増やそうともしない」と激怒したが、頼るべき与力が守隆のような趣味人とあっては、もはや何をかいわんや、である。

 佐久間父子と水野守隆。相乗効果でいよいよ茶湯の熱は高まり、信長から睨まれることと相成ったる次第。

 次に信長が「5年の間、天王寺砦に籠もっていただけで攻撃も謀略もおこなわなければ失敗すらできないのだわ」と口を極めて罵った件。これについては『石山退去録』という史料に父・信盛が「色々さまざまと謀ごとをめぐらせてスパイの老人を石山に潜入させ、献金と見せかけた箱の底に仕掛けた火薬で御堂を焼こうとした」という証言がある。

 また『陰徳太平記』にも、「天正5~7年(1577~79年)にかけて佐久間父子が数回夜襲をかけ、忍者を潜入させたものの、本願寺側が厳しく警戒していたため毎回不意を突くことができず、かえって損害ばかり出た」と記されている。これらの史料をどこまで信用するかという問題もあるが、常識で考えれば一応佐久間父子も細々と地味にではあっても本願寺攻略の努力はしていたんじゃないだろうか。

 だって、明智光秀や羽柴秀吉が華々しい戦果を信長様にどんどん報告してくるのに、自分は何も無しでは立場というものが悪くなるのである。現代を生きる企業戦士の皆様も、営業日誌(今は紙ではなくオンラインでしょうね)に「今日はあんな得意先に行ってこんな提案した、こんな取引先であんな情報入手した、これこれの新規訪問して来た」、といろいろ書くでしょ。その日の成約件数がゼロなら余計こまごまと(笑)。


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