〝天下一〟茶人として、はたまた資金運用のプロフェッショナルとして趣味とマネー両面で君臨するようになった千利休。政治面においても、信長に召し抱えられた天正元年(1573年)には早くも羽柴秀吉とコンビを組み、商都として堺に対抗する力を持っていた平野庄の末吉家と交渉するなど、存在感を発揮していた。
公私ともに信長を支える「ズブズブの関係」
天正3年(1575年)の越前一向一揆を平定した際には、信長から「鉄砲の弾1000発を遠路はるばる届けてちょおでゃーたのはありがてゃー限りだて」と礼状を送られている。
1000発分の弾丸だけならざっくり15万円ぐらいの贈り物だが、おそらく利休からは有料の弾薬も大量に販売納入されたはず。今井宗久もそうだが、堺商人は武器商人であり、織田軍の装備を支える存在だったし、信長が越前に赴く途中立ち寄った北近江の小谷城で秀吉が織田軍に兵糧を提供するのだが、それも前回「〝天下一〟となる千利休 豊臣秀吉と組んだ投資信託業」で出たように金銀相場・米相場とにらめっこして増やした米、利休の資金運用で増やしてもらった資金で買った米だ。
織田家の中の公(軍備・政治)・私(利殖活動、趣味生活)に関与、となると、もうそれは俗に言う「ズブズブの関係」。秀吉ほかの織田家臣団はまさに利休によってがんじがらめにされたようなもの。
天正4年(1576年)正月中旬、信長は安土での築城を発令。2月23日には早くも城内の施設があらかた竣工した。
普請奉行で突貫工事完成にこぎつけた丹羽長秀に対し、信長は「見事に建てたものでや、気に入ったがや!」と激賞した。そして、彼が長秀に与えたものは、言葉だけではない。
珠光茶碗。
侘び茶の創始者・村田珠光が愛用した「名物」と呼ばれる黄褐色の唐物(中国渡来)青磁茶碗だ。かつては利休の手元にもあり、1000貫文(1億円弱)で三好実休に譲られたという代物だ。
信長はその珠光茶碗を手に入れ、このタイミングで長秀に下賜したのだ。
ところで、この時点で安土城にはまだ無かったものがある。それは、天主(天守閣)だ。後の時代の天守閣とは違い、信長は天主完成次第、仮の座所である御屋敷から移り住む予定だった。
というわけで、4月1日からは本丸とその中心・天主の工事もスタート。大石が続々と集められ、4000~5000人がかりで安土山頂へと引き上げられていく。