茶湯に大金を投じ、徐々に堺衆のトップ集団に追いついた千利休。彼は弘治4年(1558年)、三好長慶の弟で茶人としても有名な実休の朝の茶会に招かれ、今井宗久や津田宗及に招かれたり招いたりの茶会歴を重ね、押しも押されもしない堺の茶人、堺の富商のひとりへと登り詰めていく。
とある茶器のエピソード
この頃に彼が茶会で披露した茶器の中から、姥口平釜を紹介しておこう。利休がいくらでこの釜を手に入れたかは分からないのだが、後に荒木村重が500貫の値でゲットしたと伝わっている。
これは5000万円近い価値なので、利休も、それより安かったろうとは思うものの、かなり大枚をはたいたのは間違いない。利休が茶人として交流を深めた村重に、果たしてどれぐらいマージンをオンして姥口平釜を売ったのか、それが分かれば面白いんだけどなぁ。
村重は天正6年(1578年)に信長への謀反を実行する直前まで、利休や津田宗及らを招いた茶会でこの姥口平釜を用いているから、よほど気に入っていたのだろう。利休の高弟「七哲」のひとりに挙げられる村重だから、師から買い受けたこの釜は命よりも大切なものだった。
ちなみに、秀吉の天下となってからも村重はこの釜を使っている。ということは、彼が天正7年(1579年)に能道具の名鼓を腰にさげ、茶の名器・兵庫壷を背負って織田軍から逃げたと伝えられる折り、この姥口平釜は彼の腕に抱きかかえられていた筈だ。
そりゃ5000万円だもん。抱きしめるよね。手がふさがっていても口で紐でも加えて引きずるよね。なんなら足で挟んで匍匐(ほふく)前進するし。
余談ながら、兵庫壷の方は後年になって秀吉が1005貫(1億円近く)で買い上げている。村重は1.5億円分を抱えて逃げたんだなぁ。
茶道界を変えた永禄11年
そして、時を遡り永禄11年(1568年)。信長が上洛戦を敢行したこの年は、違う意味でも利休と堺衆にとっての画期となる。利休に印可を与えてくれた大林宗套(だいりん・そうとう)が南宗寺で遷化(死没)したのだ。
南宗寺は三好長慶が大林のために寄進したもので、その長慶も4年前すでに世を去っている。堺を支配した長慶とそのバックアップを受けていた大林が相次いで他界したことは、新たな時代の幕開けを示していた。利休がそれを臨んでいたかどうかは別問題だが。
利休にとって堺衆としても茶人としても先輩の今井宗久が早くから信長に接近し、その上洛後は即座に織田家の代官の地位についた。
明けて永禄12年(1569年)、織田信長が堺に課した矢銭(軍用金)2万貫(20億円近く)を強制徴収するため、重臣団と兵たち100人ばかりを堺へ派遣した。これを天王寺屋の当主・津田宗及が自邸に迎えて、折り(折詰めの食事)と酒などを出してオモテナシしている。