2023年1月30日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年7月9日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

高まる〝天下一〟の茶人・利休の権勢

 信長の茶頭=名実ともに天下一の茶湯者の名誉を手に入れた利休は、この年9月、堺の南宗寺の古渓宗陳(ちなみに彼は越前朝倉氏の出身)が京・大徳寺の住持に転出することになると、その祝儀として100貫文(1000万円弱)を寄進した。これに対して、先輩の津田宗及の寄進額は50貫文と、半分に過ぎない。

 同じ年に織田家お召し抱えとなったのに、この金額差。これこそが、公式イメージキャラクターの格というものなのか!?

 その後、天正3年(1575年)の長篠合戦で武田勝頼を撃破した信長は、続いて越前一向一揆を殲滅。一向一揆の後ろ盾・大坂本願寺も一旦織田方と講和して態勢を立て直す必要に迫られた。

 そこで本願寺が和睦の代償としてこの時差し出したのが、「これしか無いだろう」というもの。もちろん、信長を喜ばせるためには、という意味だ。

 そのブツとは。

 茶器に決まってるじゃないか!信長さんだぞ?

 玉澗の画2点、趙昌「花の絵」だ。これらの価格は分からない。とはいえ、その本願寺と共闘した末、一緒に信長へ頭を下げに行った三好笑岩(長慶の叔父)は天下に名高い大名物(東山御物。足利義政コレクション)の茶壺「三日月」を祝儀に献上。こちら、5000貫~1万貫(5億~10億円程度)となっているのだから、主役たる本願寺からの三幅の絵はそれ以上の価値があったんじゃないかな、と思う。

 その7日後、信長は京の妙覚寺で17人の茶人を招いて茶会を催した。床の間に飾られたのは、ついこないだ手に入れたばかりの三日月茶壺。

 「武田も越前一向一揆も本願寺も三好党も我が敵にあらず。もはや天下布武は成ったも同然だわ!おみゃーたちもわしが唯一の保護者であることを肝に銘じるのが利口というものだで」

 信長の得意満面ぶりが目に浮かぶ。

 そして、自らも客たちに茶を点てる一方で、ある茶人にも茶を点てさせた。

「茶道は宗易」

 そう、『信長公記』が言うように、宗易(利休)が茶事を司ったのだ。手練(てだ)れの玄人ばかりの茶会でふたたび信長から「天下一茶人」のお墨付きが与えられたことになる。利休の権勢はいよいよ高まった。

 一般的に、利休は豊臣秀吉の茶頭として活躍したと考えられがちだが、もうこの時期には押しも押されもしない大茶人なんですよ、利休さんは。

秀吉と信長側近で進められていた資産運用

 秀吉の名前が出たところで、こんな書状を紹介するとしよう。

 「茜部(あかなべ)での借金について、堀久太郎がそちらに渡すと小沢六郎三郎が言ってきたので、六郎三郎の指示に従え」

 茜部は美濃の地名で、信長お気に入りの馬廻(側近)・堀久太郎秀政の領地。宛先は秀吉の部下・小出秀政で、このあとの部分で秀吉は「そちらで管理している米で黄金と銀の相場が安いときに買い入れておけ」と指示している。そこのところは以前秀吉の章でも引き合いに出した。覚えておいでだろうか。

 今回肝心なのは、信長の寵臣・堀秀政が自領で借り集めたお金を、なぜわざわざ秀吉に託したのか、という点。その金額は、ひと月近くあとに秀吉自身が「35貫文の証文をお届けします」と秀政に書き送っているから、銭35貫文=350万円近くと分かる。


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