2023年2月7日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年7月9日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 これだけの人数を一気に収容できる屋敷というのも凄いし、酒食の手配だってバカにならない。それをポンと提供できる天王寺屋の財力、侮る事なかれ、だ。

 ここで覚えておいていただきたいのは、この重臣団の中に佐久間信盛がいたことだ。これ、念頭に置いといて下さい。

信長の茶頭として名を上げていく利休

 それでは利休がいつ信長の茶頭になったかという話をしていこう。

 永禄13年(1570年)には堺を訪れた信長の御前で堺衆ほかに茶が振る舞われている。茶を点てたのは、利休その人。これ、結構大変なことだよね。何しろ信長が利休を自分の茶湯分野での公式イメージキャラクターになったということなんだから。

利休が信長の茶頭をつとめた京・妙覚寺

 逆に言えば〝POWERED BY 信長〟の金看板を手に入れた感じか。当代きっての茶人・今井宗久や津田宗及をさしおいて、だよ。ここにきて利休は一気に茶湯マニアたちに仰がれ憧れられる存在になったわけだ。

 でも、利休がこれで信長に召し抱えられたという訳ではなく、それから少し時間をおいた天正元年(1573年)。津田宗及と同じ頃のことだった。

 ちょうどこの年、将軍・足利義昭を追放して名実ともに天下人としての地位を確立した信長は「天下一の称号は京の名人たちが協議して定めるべし!」と命じている。もちろん京の名人たちを諮問機関として、実際に「天下一」の称号使用を許可するのは信長自身、という仕組みだ。

 こんなエピソードがある。

 京都所司代・村井貞勝が連れてきた鏡屋宗伯という鏡作りの名人を引見した信長、宗伯作の鏡の裏に「天下一」と銘が入っているのに気付いて「この前に誰だったか他の鏡屋が献上してきた鏡にも〝天下一〟と銘があったではねぁーか!天下一は天下にただ一人だわ!ふたりもいるのはカオス(無秩序)だでかんわ!!」と激怒。

 「これはただただ貞勝の愚かさのせいで、貞勝の愚かさはわが愚かということだでや」と吐き捨てた。鏡の裏まで気を配らなければならない貞勝こそ良い面の皮、モラハラの極みと言うべきだが、これで許認可制となった「天下一」称号に上納金が課されたと仮定すれば(まぁおおっぴらにか袖の下でかは分からないが、多少は課されたんだろう)、信長は重箱の隅もつついてお金をほじくり出す才能に長けていた、ということだ。

 典拠の『甫庵信長記』では天正8年(1580年)の記事になっているが、内容を考えると天正元年(1573年)頃のことだろう。

 政治や経済、軍事だけでなく、美術・工芸・芸能の世界をも支配する体制を着々と築いていく信長。その公式イメージキャラクター・利休の存在感も、それにつれていよいよ高まっていく。『利休由緒書』では信長に召し抱えられた利休を「無双の出頭」を遂げたと表現しているが、天下無双も天下一も同じこと。 


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