秀政は秀吉の命で金銀相場が安ければ買い付けておくように命じられているのだから、秀政から送られて来た銭もこの秀政のところでプールされ、相場取引に投資されたと考えるのが自然だ。秀政はお金を秀吉に預けて増やしてもらおうとしていたんだね。
さらに面白いのは、その仲介をしている小沢六郎三郎という男が、これも奉行人などを務める信長の側近だったこと。3年後には安土城築造の石奉行にもなっている。安土城に必要な石の数、作業員の数、運送の手配、それらに関わる費用の確保などに必須な計数の才能に長けた人物だ。
それが、同僚の秀政のフィナンシャルプランナーの様に秀吉との橋渡しをしている。秀吉と信長側近団にはこの時期資産運用を行う私的な結びつきが出来ていたのだ。
裏には「資金運用家」利休の姿
それにしても、長浜城主で北近江三郡の内の領主に過ぎない秀吉がどうしてそれほど信用され頼られるインベストメントバンクになれたのだろうか。信用は資金力。その背景は何か。
どうやらそれが、利休だったらしい。これも以前秀吉の章で紹介した書状だが、この年の頃のものとされる利休宛ての秀吉書状にこういうものがあった。
「お預けした革袋入りの金子を、たしかに受け取りました。長々と無心(手を煩わせるお願い)しておりましたが、祝着(非常に嬉しい)です!」
宛て先は〝宗易公〟となっており、この頃の利休が秀吉より上位の存在だったことがバリバリ伝わってくる。秀吉は利休に黄金を預け、投資運用してもらっていたのだ。
つまり、利休は秀吉インベストメントバンクの、さらに上に位置する投資信託の大元締めだったと言える。秀吉の凄みは、信長側近である秀政や六三郎を差し置いて利休と固く結びついていたこと。そして、お金を託してくる秀政らの期待を裏切らず、利休の運用力のおかげも相まって確実に彼らの収益を確保し、提供してあげたこと。
俗に、「地獄の沙汰も金次第」という。「金の切れ目が縁の切れ目」の反対で、お金による結びつきは、相互に利益がある間はどんな障害にも負けない(笑)。
秀吉はこのとき秀政に「信長様が安土へ移られることについて何度もお知らせいただき、いつも有り難い」と礼を述べ、以降も信長の情報を共有し、秀吉の働きを適宜信長に上奏する仲として続く。それもこれも、利休マネーの賜物だった。
『荒木村重史料 伊丹資料叢書4』(八木哲浩編、伊丹市役所)
『利休の年譜』(千原弘臣、淡交社)
『茶道古典全集』(淡交社)
『武将と茶道』(桑田忠親、一條書房)
『利休の書簡』(桑田忠親、河原書店)
『豊臣秀吉文書集 一』(名古屋市博物館編、吉川弘文館)
『今井宗久茶湯日記書抜 静嘉堂文庫蔵本』(渡辺書店)