2024年12月22日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2022年6月9日

 それでは、前回「織田信長を踊らせたプロデューサー 宗久から千利休へ」で紹介したテレビの鑑定番組で出た千利休の書状の内容をサクッと掘ってみよう。

 現代語訳をおさらいすると、「お知り合いの中に茶4斤3斤半ほどの渡壷をお持ちの方が居たら、欲しいです。金10でも、また12、3でも良いでしょうか、欲しいのです。さる方からのご希望なのですが、探して貰って、お二人のご尽力でなんとかお願いします。茶会が近いので、必ず欲しいのです。二つ欲しいのです。また、金5つほどのものも欲しいです。これもわたしの物を欲しいです」だ。

千利休ゆかりの大徳寺金毛閣(筆者撮影)

 利休は3斤半~4斤の茶葉を入れることができる「渡壷」をふたつ探し出して買い求めて欲しい、と2人の人物(名前不詳)に依頼している。

 その予算が1つ当たり「金10〜13」というのは金子(大判)勘定だろうから、小判に換算すると100〜130両、現代の価値で2000万〜3000万円か。そんな高価な壺を2つ、さらに金5=1000万円のものも入手したい、とはなんとも豪儀だ。

 差し迫った必要にかられての事とは言え、茶道とは斯(か)くも物入りなのである。

 さて、その必要の理由なのだが、利休は「さる方よりの所望」だという。その高貴な人物が茶会で茶器を披露したり使ったりするためなのだろう。

 その期日が迫り、金10から金13まで値段が跳ね上がってもOKだ、というのだから相当な大物の茶会プロデュースを利休が仕切っていたことが分かる。

 そして、番組では文中の「渡」を「渡来」と訳していたが、ここ、ちょっと疑問。

 「渡来」は「唐(中国)渡り」「南蛮(東南アジア)渡り」などの輸入品のことだが、この利休書状には最後の金5の壷に「是もわたし」で、と注文している。ということは、前の「渡」も「わたし」と読むことになって、「わたり」では、絶対に無い。

 茶湯では、大壺に詰めた茶葉を1年使い続け、次の年の新茶の季節になると残っている前の年の茶葉(残り茶)をひと回り小さい壺に詰め替え、空にした大壺で茶商に新茶を詰めてもらう、という年中行事がある。この小さい壺を利休時代以前から「渡壺(わたしつぼ)」と呼んでいた。その渡壷の容量が、まさにジャスト3斤半~4斤程度(2キログラムあまり~2.4キログラム)となる。

 だから、利休は渡来品の茶壷を探しているわけではなく、渡壷として用いるのに適当な壷を指定したに過ぎない。結果的にそれが高額な渡来品の壺になる可能性はあっても、ハナからそれを指定していたのではない。

茶湯数寄でマネーが飛び交う

 それにしても、国内産の中型茶壺であれば名物に近いクラスの品でなければそんな高額にはならないだろう。そんな品を手配して、確保して、提供する。ひょっとしたら、利休自身も手に入れた渡壷に手数料を上乗せして、依頼者に納めていたかも知れない。

 この書状は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が関白になった後に出されたものだが、その筆頭茶頭の地位にあった利休がいかに大金飛び交う貴人たちの茶事に関与していたかを証明していると言えるだろう。


新着記事

»もっと見る