利休も数え切れない失敗を経験したに違いない。なにしろ、茶湯数寄の「数寄」は「数を寄せる」、数多く集めてナンボなのだ。
天文13年(1544年)2月27日、初めて茶会を主催した利休は、「善幸香炉」「唐物・珠光茶碗」と有名な茶器を2つも披露し、客として招かれた京の一流茶人を仰天させている(『松屋会記』)。
名物茶器よりは安いとはいえ、「珠光茶碗」の方は後に利休から三好実休(長慶の弟)へ1000貫文(1億円近く!)で売り渡されているから、23歳当時の利休が所持するには、千家の蔵も少なからず傾けなければならなかったに違いないのだ(『山上宗二記』)。
利休と大徳寺と日明貿易の関係
そんな利休にとって次のエポックは、天文14年(1545年)だった。
この年の4月8日、利休は京の名刹・大徳寺の90世住持・大林宗套(だいりん・そうとう)から臨済禅の印可を受け、与四郎から宗易と名乗りを変える。印可というのは、師の僧が弟子が悟りに達したことを認め証明するもので、印可状を貰った弟子は仏の道を守り修行することを誓うことだ。
宗套は天皇から国師号を受けるほど徳の高い高僧で堺に住んでいたこともあり、のち三好長慶の依頼で三好家の菩提寺・堺南宗寺(なんしゅうじ)の開山となるほど堺と三好氏との関わりが深い人物だ。
だから利休が私淑(ししゅく)して印可を受けたのか、というと、まぁそういう部分もあったんだろうが、実はそれ以外に重要な理由が挙げられる。それが、「貿易」だ。
え? 禅寺と貿易って接点あるの? と思われるかも知れないが、当時の大徳寺は中国との貿易(日明貿易)の後援者のような存在だった。大徳寺には、檀家からの寄付金が集まる。当時はそれを「祠堂銭(しどうせん)」と呼んだのだけど、大徳寺の臨済宗のような鎌倉時代以降の「新米」宗派は平安時代の大寺院のような広大な荘園など無く、この祠堂銭をあてにするところが大きかったわけ。
この祠堂銭が、あとの時代になるとお寺の金融事業に転用されるようになった。余剰金を貸し出してその利息をとる。土倉の金貸しが利息6文子(月利6%)だったのに対して2文子(同2%)と安く、そのうえ借主も「滞納すれば仏様の罰が当たるかも」とせっせと返済するから、リスクも低い。
この祠堂銭に目をつけたのが、天王寺屋など堺の豪商たちだった。よく名前の出る津田宗及もこの天王寺屋の人だね。
中国へ貿易船を派遣するには莫大な費用が必要になる。利休の時代から1世紀さかのぼった頃の遣明船の費用について、
(1)借船300貫
(2)造船300貫
(3)船員40人雇用400貫
(4)船頭・舵取雇用50貫
(5)通訳2人雇用60貫
ほかで計1820貫文という記録がある。現代でいうと20億円近い金額だ。それだけの大金は、さすがに堺の豪商でも右から左に用意するというわけにはいかない。そんなまとまった資金の確保先として、大徳寺の祠堂銭はうってつけだったんだね。