茶湯数寄の趣味とマネーとの関係性がいかに深いか。他にもそれをうかがわせてくれる話があるから、ここでついでに紹介しておこう。
徳川家康の家臣に斎藤宗林なる人物がいるのだが、茶人としても仕えたという。この宗林、何とも羨ましいことに「余りに富貴なる故、金銀で数珠の玉を拵(こしら)え鎧の上に掛けて合戦に出ること甚だ隠れ無き者」(「遠州高天神記」)と伝わるように、大金持ち過ぎて金銀で珠(たま)を造った大きな数珠を鎧の上にゾロリとかけて合戦に出るほどに裕福だった。
彼は遠江国高天神城を守っていたが、天正2年(1574年)6月、城が武田勝頼の包囲によって降伏開城すると脱出し、駿河に逃れた。
ところが、彼があまりにも裕福だったため野盗に目をつけられ、宇津谷というところで討たれてしまったという(宗林の最期については異説あり)。お金を持ちすぎるのも考え物という話だが、一方でお金持ちであることが茶人として生きるための第一条件でもあったことが分かる。
ちなみに、宗林の領地だったという下方は掛川の一部で、戦国時代すでに茶が生産(掛川茶)されていたらしい。
〝若者〟利休は茶湯で貧乏になった?
と、まぁまぁイントロが長くなってしまったところで、話を利休登場の頃に戻そう。利休、本名は千(田中)与四郎。今井宗久と同じく堺の出で、今市町(今の堺旧市街地の中で、紀州街道に面し宿院の常夜灯がある交差点の南西角あたり)に住まっていた。
祖父の田中千阿弥は将軍・足利義政の同朋衆(身の回りの世話役や、お伽相手)として唐物奉行を務めたあと堺に閑居したが、金銭的には恵まれていなかったらしい。祖父・田中千阿弥と父・田中与兵衛を前後して喪ったあと祖父の7回忌のときには「お金が無くろくな法事が出来ず、泣きながら墓掃除をした」と孫の利休自身が証言している(不審菴蔵『緑苔墨跡』)。
このあたり、どうもよく分からないのだが、のちに利休が遺言状に記したところによると、本拠地の堺における千家の家屋・土地は5カ所に過ぎず、それがほぼ与兵衛の代からの物件だったという。であれば、与兵衛は商人としては堺を代表する大商人だった今井宗久よりも身代は小さかったのだろう。
利休が茶湯の修行を始めたのは17歳のとき。父の死はその2年後で、祖父の7回忌がその後だとすれば、怖いオヤジがいなくなり茶湯にハマりまくってしまった利休が高価な茶器に手を出し、千家の台所が苦しくなって手持ちのマネーも底をついたという流れも考えられるね。
当時の上等な茶の値段は1ポンド当たり9~10クルサード(フロイス『日本史』)。500グラム弱が4万5000円前後だから、現代の高級お抹茶の値段に近い。それだけでも、僕たち私たち一般庶民にはなかなか手に届きにくいレアアイテムなのだが、若いうちから利休はそんな贅沢品を消費しまくる生活をしていたわけだ。現代で言えば高校生の年齢ですよ。
つかまされたたくさんの贋物
織田信長上洛以前の話として、あるとき墨跡(禅宗の高僧が書いたもの)を120貫で購入した利休は、客からそれが偽物ではないかと指摘されると即焼き捨ててしまったという。120貫は120万円弱程度だが、いくら自分の目利きの失敗を後世に伝えないためとはいえ、100万円かけたものを「疑惑」だけであっさりと滅却してしまうのだから茶湯者も大変だ。
利休は他にも一休さんの墨跡をイミテーションと教えられてその場で引き裂いてしまった、という逸話もあるから、大金を投じて茶器をコレクションしていく中では、結構な数の贋作をつかまされていたのではないかな。
これは全然違う話なんだけど、希代の中国古美術品収集家ジョージ・ユーモルフォプロスは、彼がつかまされてしまった1500点の贋物だけを収めた部屋があったという。どれだけ肥えた目を持っていても、そういう失敗はあるんだね。