茶器の〝押し買い〟をおこなった織田信長。
不当な安値で無理矢理買い上げたような印象を与えてしまうかも知れないから一応彼の名誉のために書き添えておくと、堺の豪商・今井宗久は信長から茶器を買い上げられた際、「銀子を多分に賜った」と記録している。
相場より高めの買い取り価格を設定したのだろう。そりゃそうだ、桶狭間の戦いの前年にわずかな供連れで上京に滞在し、将軍・足利義輝にも拝謁した信長は京の人々がお行儀にうるさいことなど百も承知。京の支配者がならず者のようなマネをしたら、源平の昔に京で乱暴狼藉と非礼の限りを尽くして「浅ましい」と朝廷から見捨てられた挙げ句、源頼朝によって攻め滅ぼされた木曽義仲の二の舞を演じてしまいかねない。
であるからして、宗久が「多分」な代金を受け取ったのも当たり前なのである。
一方、信長に茶器を売った側の今井宗久にも、深~い事情があった。
紹鷗茄子にこめた今井宗久の神算
茶入「紹鷗茄子」などが信長の手に渡ってから2カ月経った頃、信長の奉行人となった木下秀吉(豊臣秀吉)らが松永久秀にこんな指示を発している。
「今井宗久と武野新五郎との訴訟の件は、信長様が双方に歩み寄れと言われたのに新五郎が拒否ったから、まるっと宗久の勝訴となったよ。だから宗久がこれから信長様のお役に立つよう働くように伝えてね!」
新五郎というのは武野紹鷗の息子で、茶名は宗瓦。紹鷗が亡くなった13年前はまだ4歳で、このとき17歳。紹鷗の娘婿・宗久は宗瓦にとって30歳上の義理の兄にあたる。
宗久は紹鷗の死後、幼い宗瓦の後見役として紹鷗の遺産――田畑、家屋敷、茶道具をひっくるめた全財産を預かっていた。ところが、宗瓦は成長するにつれそれに不満を抱くようになる。
裕福な武野家に生まれて苦労知らずに育ってしまったから、「全部自分の思い通りに使いたい」と考えちゃったんだろうね。お金とお宝は、あればあったでいろいろ厄介なのだ。
だが、宗久はそんな宗瓦の我が儘に「No」と答えた。
「お坊ちゃんの宗瓦の自由にさせれば、舅の遺産はあっという間に無(の)うなってまうわ。中でも名物茶器だけは何としても散り散りにならんようせんとあかん。宗瓦が大人になって分別をわきまえるまでは、何が何でも渡す訳にはいかんのや」
そして義兄弟ふたりの係争は、信長の上洛を迎えてもまだ解決していなかった。