信長のためにさまざまな交渉を執り行う宗久
この経緯を見ると、宗久が信長のご意向に全面的協力をしなければならないのは誰でも分かるだろう。世に「タダほど高いものは無い」という。宗久は信長から多大な恩恵をこうむった代償として、過大なミッションに挑まなければならなくなる。
「矢銭(軍用金)2万貫を払え」
信長は上洛後に大坂本願寺へ5000貫、奈良の法隆寺へ1000貫、堺と同じ港湾商業都市の尼崎にも幾らかを、それぞれ矢銭を課した。これに対して堺の2万貫というのは15億円を上回るかという金額で、「日本一の境地」「富貴の湊」と評された大坂の本願寺に対し、堺はその4倍。かつてフランシスコ・ザビエルが「日本最大の港都」「最も殷賑(いんしん)を極めた富裕な町」「全国の金銀の大部分が集まる所」と紹介した堺が、他にくらべて飛び抜けて裕福だと信長も認識していたのが分かる。
さて、これにどう対処するか、だ。堺も当初は断固これを拒否した。町の周囲を堀・土塀や櫓で固め、信長何するものぞと意気軒昂戦意旺盛だった。
ところが、反信長派(というか、それが主流派だった)の堺衆が共同戦線を張ろうともちかけていた平野(大坂と奈良のルート上にある商業都市)がすげなく断って信長に従い、
頼みの綱の三好勢が京・本圀寺の将軍・足利義昭を攻め、織田軍によって蹴散らされると、風向きが変わって「これはアカンのと違うか」となる。
この間、信長を支持して2万貫の矢銭を払おうよ、と堺衆を説いて回ったのが今井宗久だ。「信長様のお役に立つよう働け」の実践だね。
結果、堺は「織田家に従い、2万貫を献金します」と降参した。直後、尼崎が矢銭の支払いを拒否して焼き討ちされ、30人の町民が殺されているから、実にギリギリのタイミングだったと言えるだろう。
危うい綱渡りをやってのけた宗久はミッションクリアの報賞として織田家の蔵元(金銭を管理し、必要に応じて資金の貸し付けもおこなう。江戸時代の大名相手の大手両替商のような存在)となった。成長著しく、常に大量の軍資金が回転する織田家の下、宗久は恐ろしいほどの利益を得ていく。
そしてこの頃、宗久は代官として支配する土地にこんな命令も発した。
「年貢完済まではよそに金を貸したりするな。頼母子講や勧進は禁止。請け取り沙汰と付け沙汰もダメ」
頼母子講とは、互助共済を謳った集金・配付、請け取り沙汰・付け沙汰は債権の回収と返済行為。要は、金融行為を制限したわけだ。宗久としては、お膝元の流動資金をできるだけ留め置かせておいて、いざという時それを織田家の資金係として投入できるようにしておきたかったのだろう。
この年12月、宗久は但馬国の山名祐豊を堺に迎え、信長に服従させる仲介役を務めるのだが、その際に「挨拶のための礼金が2000貫と多額で時間も無いので、祐豊殿は半分も支度できないと困り果ててはる。しかたないので私が借金して1000貫を立て替えますわ。残りも何とか手配します」と織田家重臣の佐久間信盛へ書き送っている。
生野銀山の代官となる掌握するのに祐豊をうまく利用するのが得策と考える宗久。1億円近いお金をマッハで都合しなければならないとは、蔵元も辛いよ、だった。